四百年の声
大政奉還は、慶応三年のある日、突然起きたのではない。
春嶽はそう考えていた。晩年、逸事史補の筆を執ったとき、彼が真っ先に書き記したのは、あの日のことではなかった。二百数十年前——徳川家康、その人の血筋から語り起こしている。
しかも、それは一本の糸ではない。家康の血を引く一族が、それぞれ別の場所で、別の形で、幕府の終わりへと続く道を敷いていた。
慶応三年丁卯の冬、徳川氏大政権を返上し、皇政維新になりたるは根元は一朝一夕の事にあらず。衆多の人の考ふるところは、米国軍艦ペルリー浦賀港に来舶して、外国通商の行はれしより、ついに天下紛乱して、かく大政権返上になりしといふは浅近の考なり。
——慶応三年の冬、徳川家が政権を朝廷に返上し、明治維新となった。その根元は、一朝一夕のことではない。世の多くの人は、アメリカの軍艦ペリーが浦賀に来航し、外国との通商が始まったことで天下が乱れ、政権返上に至った、と考えている。だが、それは浅い見方である。
逸事史補は、こう言い切ることから始まる。ペリーは引き金であって、原因ではなかった、と。
光圀という種
では、本当の根元はどこにあるのか。春嶽は、百年——いや、実際にはさらに遡ることになる——前まで時をたどる。

此根元といふは、百年以前ひらける物と考へられたり。いかんとなれば、水戸中納言源光圀卿の一人より醸成せり。其わけは、光圀卿は和漢の学に長じ、尊王を初て称せられ、大日本史をはじめ、多くの国史を編修せられし。光圀卿は第一尊王、第二尊幕の大志なれども、其臣下にいたりては、幕府を卑んするの心を生ぜり。ゆへに、光圀卿より此一大美事を、張本することに決せり。これゆへに水戸人の気概のありしゆへんなり。
——この根元は、百年以上前にひらけたものと考えられる。なぜなら、水戸中納言・源光圀卿、ただ一人によって醸成されたからである。光圀卿は和漢の学に通じ、初めて尊王を唱え、『大日本史』をはじめ多くの国史を編纂した。光圀卿自身は「第一に尊王、第二に幕府を尊ぶ」という大志であったが、その家臣たちには、幕府を軽んじる心が生まれてしまった。それゆえ、この一大事の張本人は光圀卿である、と決めてよい。水戸の人々の気概は、ここに由来する。
光圀——のちの世に「水戸黄門」と呼ばれるあの人物である。学問と編纂事業に生きた大名が、二百年後に幕府を終わらせる思想の源になるとは、当の本人も思わなかっただろう。
そしてもう一つ、見落とせないことがある。光圀の父・頼房もまた、朝廷を尊ぶ人だったと、春嶽は別の箇所で書き添えている。
前記にもいふごとく、此御一新の原因は、水戸黄門光圀卿なれども、実は其祖先頼房公は、専ら朝廷を尊奉し奉る事歴史に見えたり。右故、於幕府は大に嫌疑を受けたり。此頼房公は、東照宮の御子也。
——先にも述べたように、この御一新の原因は水戸黄門・光圀卿にあるが、実はその祖先である頼房公も、もっぱら朝廷を尊び奉っていたことが史書に見える。それゆえ幕府からは、大いに疑いの目を向けられていた。この頼房公は、東照宮——徳川家康、その人の子である。
家康の子が、朝廷を尊ぶ心を子の光圀へ伝え、光圀が学問という形でそれを結晶させた。幕府を開いた家の中から、幕府を終わらせる思想が育っていた——その最初の種は、家康自身の血の中に、すでにあったのである。
頼山陽、天下に広める
だが、光圀の尊王論は、長らく水戸だけのものだった。それを日本中に広めたのは、光圀より後の世代の、一人の学者である。
光圀卿以来は、尊王は水府にのみありて、他にしることなし。西国の諸侯は、年々参勤交代に京坂を通行す。且は其臣下を京坂に置きて、屋敷あり。関東の驕奢を嘆ずるもの多く出来たり。其魁たるものは頼山陽なり。日本外史をはじめ、通議等を著述せり。此より尊王の説大に行はれり。光圀卿の次には、山陽を以て維新の張本と思へり。
——光圀卿以来、尊王の思想は水戸にのみあり、他の者は知らなかった。西国の諸侯は毎年参勤交代で京都・大坂を通行し、家臣を京坂に置いて屋敷を構えていた。そうした中で、関東(幕府)の驕り高ぶった贅沢を嘆く者が多く現れた。その先駆けが、頼山陽である。『日本外史』をはじめ『通議』などを著した。これより、尊王の説は天下に大いに広まった。光圀卿の次には、山陽こそが維新の張本人であったと思う。
光圀が種を蒔き、山陽がそれを天下にばら撒いた。西国の諸藩士たちが京坂を行き来するたび、その思想は少しずつ運ばれていく。志士たちが胸に抱いた尊王の志の、遠い水源はここにあった。
光圀の血を継いだ男——烈公斉昭
光圀が蒔いた種、山陽が広めた思想。だが、それを実際に幕政の現場で暴れさせたのは、光圀から数えて六代のちの水戸藩主、徳川斉昭——のちに烈公と呼ばれる男だった。

水戸家々中、とかく党派をたて、議論をなし、はては戦争に及び、不平多く、穏安ならざる根元は、水戸中納言斉昭卿景山と号し、諡号烈公と称す。此公の一時の失策より起れり。これよりして天下の乱も、水戸の動乱にもなりしといふ。
——水戸家中が党派を立てて議論し、ついには内輪の争いにまで至り、不平が絶えず、穏やかでなくなった根元は、水戸中納言・斉昭卿——号は景山、諡は烈公——この人の、ある時の失策から起こった。これによって、天下の乱もまた、水戸の動乱と重なり合うものになったという。
家中の派閥争い(藤田東湖・戸田忠太夫らの一派と、結城寅寿らの一派の対立)から始まった「一時の失策」は、やがて水戸一藩の内輪もめでは済まなくなる。斉昭は尊王攘夷の急先鋒として朝廷に接近し、朝廷もまた斉昭を頼った。その結果が、幕府の頭越しに水戸へ直接下された「戊午の密勅」であり、条約調印に抗議して無断で江戸城へ押しかけた「不時登城」だった(→戊午の密勅|安政の大獄の発端となった水戸への勅書)。
この不時登城の科により、斉昭は謹慎を命じられる。そしてこのとき、同じ夜、同じ理由で謹慎を命じられた大名がもう一人いた——松平春嶽、その人である(→飛雪の朝|松平春嶽が見た安政の大獄と橋本左内の死)。
光圀が二百年前に蒔いた種は、その子孫・斉昭の代で、ついに時の権力者たちを震撼させる行動そのものになった。しかもその渦の中に、この逸事史補を書いている春嶽自身が、まさに巻き込まれていたのである。
もう一つの坂——将軍家という系統
ここで、話は水戸家から離れる。もう一つの流れ——将軍家そのものの物語である。
皮肉なことに、幕府の終わりへ続くこの流れは、朝廷と幕府がもっとも睦まじかった時代から始まる。

文化・文政・天保の太平致すものは偶然ならず、全く我伯父なる文恭公の盛勲なり。此公は、驕奢増長すれども、元来英雄にして、天下を維持し給ふの器材あり。加之、当今、光格帝も、文雅に長じ給ひて、聖明の帝なり。聖天子明将軍の天下を維持し給ふゆへに太平なり。
——文化・文政・天保という太平の世が続いたのは、偶然ではない。ひとえに、私の伯父にあたる文恭公(徳川家斉)の功績である。この方は、驕り高ぶって贅沢が増長したとはいえ、もともと英雄の器で、天下を治めるだけの才があった。加えて、当時の光格天皇も、文雅に優れた聖明の帝であった。聖なる天子と、賢明な将軍——この二人が天下を維持していたからこそ、太平だったのである。
文恭公——徳川家斉。十一代将軍。水戸の血筋ではない。将軍家の傍系・一橋家から養子に入り、五十年にわたって将軍の座にあった人物である。
この家斉と、光格天皇の間柄を、春嶽は微笑ましい逸話とともに伝えている。家斉は毎年、江戸城の菊を京へ贈った。だが早追いの飛脚で運んでも、京に着く頃には花はすっかり萎れていた。それでも光格天皇はこれを深く愛で、盛大な宴を開いたという。公卿たちが「萎れた花に、なぜそこまで」と訝ると、帝はこう仰せられた。
「菊は萎縮すれども、将軍の心の花は盛りなり」
花そのものではなく、それを贈ろうとした将軍の心を愛でる——この一言に、公卿一同が敬服したと春嶽は書く。朝廷と幕府が、もっとも近しく結ばれていた時代の光景である。
家慶の凡庸、水野の台頭
だが、この蜜月は長く続かなかった。家斉のあと将軍職を継いだ子・家慶の代になると、事情は一変する。

東西御不合体、京都関東等の不和合を生ぜしは、慎徳公よりなり。文恭公は尊王の意厚くあらせ給ひしが、慎徳公に至りては、京都へ献上物もあたり前丈けにして、よくよく御献上物ありても、御袴にても検査も御拝見もなく、これにて推知すべし。
——朝廷と幕府の間に不和が生じたのは、慎徳公(徳川家慶)の代からである。文恭公は尊王の心が厚かったが、慎徳公の代になると、京都への献上品もただの形式ばかりとなり、立派な品を献上しても、将軍自らが検分することすらなくなった。これだけでも、その心構えの違いは推し量れる。
さらに春嶽は、家慶をこう評している。
慎徳公家慶は、凡庸の君にして、将軍の器量なし。老中水野越前守に愚弄せられたり。
——慎徳公・家慶は、凡庸な人物で、将軍としての器量に欠けていた。老中・水野越前守(忠邦)に、いいように操られていたのである。
実権を握った水野忠邦は、天保の改革を断行する。倹約を掲げた政策は、しかしその布令があまりに厳格で過酷だったため、民は堪えかねた。
布令厳酷苛虐にして、人民の堪へ兼る事多し。……人民これより怨嗟を懐きて、諸藩幕政を厭ふの権輿とす。
——布令はあまりに厳しく過酷で、民が堪えられないことが多かった。……人々はこれより幕政への怨みを抱くようになり、諸藩もまた幕政を厭う始まりとなったのである。
朝廷への敬意は形だけになり、民の心も幕府から離れていく——春嶽は、そう見ていた。家斉の代に保たれていた均衡は、家慶の代で静かに崩れ始めていた、と。
動乱の兆し
そして春嶽自身も、子供の頃から、不吉な予兆を目にしていたという。
天保八酉年秋九月十五日神田祭練物等例の如く、吹上覧所前通行、猿鶏の出し渡り来りしが、いかゞの事歟、鶏の吹上覧所将軍御座の前に、鶏折れて落ちたり。酉年に、鶏の折れ落ちたが不吉といふべし。余十歳の時なり。
——天保八年(酉年)の秋、九月十五日の神田祭で、例年通り練り物の行列が吹上御覧所前を通った。猿と鶏の作り物が渡ってきたが、どうしたことか、その鶏が将軍の御座所の前で折れて落ちた。酉年に鶏が折れ落ちるとは、不吉と言うべきである。私が十歳のときのことだった。
これを乱兆——乱の兆しと、春嶽は記している。さらに、こう続ける。
天下動乱の始は、大坂にて大塩平八郎也。……天保十四年癸卯春二月比、西方白気出現、天変地妖の始めなり。余十六歳なり。
——天下動乱の始まりは、大坂で起きた大塩平八郎の乱である。……天保十四年の春二月頃には、西の空に白い気が現れた。天変地異の始まりである。私が十六歳のときのことだった。
十歳で見た、折れ落ちる鶏。十六歳で見た、西の空の異変。少年時代の春嶽の記憶に刻まれた、二つの不吉な光景。晩年、御一新の遠因を語ろうとしたとき、彼はこの記憶までも書き記さずにはいられなかった。
まとめ——二つの流れが、慶応三年に合流した
水戸では、光圀が蒔いた種が、頼山陽によって天下に広まり、尊王の志士たちを育てていった。そしてその血を継いだ斉昭自身が、戊午の密勅・不時登城という形で、ついに幕政の現場を直接揺さぶることになる。
江戸では、家斉と光格天皇の蜜月がやがて緩み、凡庸な家慶と、苛烈な水野の改革のもとで、朝廷への敬意も民の信頼も、静かに失われていった。
一つは思想の流れ、もう一つは政治の流れ。水戸と江戸、まったく別の場所で、まったく別の形で進んだ二つの道が、慶応三年の冬、一つに合流する。
ペリーの黒船は、たしかにこの国を揺さぶった。だが春嶽の見立てでは、それは長い坂道の果てにようやく現れた、最後のひと押しに過ぎなかった。坂そのものは、二百年以上も前から、少しずつ削られ続けていたのである。
四百年——それは、正確な年数ではないのかもしれない。三河の松平一族に生まれ、徳川の家を興した家康。その血を引く一族が、水戸で、江戸で、それぞれの場所で、それぞれの時をかけて積み重ねてきた、長い長い時間の重みを指す言葉なのだろう。
その積み重ねの果てに、春嶽自身もまた、生きていた。
主要典拠
・松平春嶽『逸事史補』(『松平春嶽全集』第1巻 所収)冒頭部「大政返上の遠因」〜「天下動乱の兆」
画像出典
・徳川光圀、徳川斉昭、徳川家斉、徳川家慶:いずれもWikimedia Commons(パブリックドメイン)
