幕末

井伊直弼は悪役か|松平春嶽『逸事史補』が語る水府陰謀説

井伊直弼の肖像画(大老・彦根藩主)
kirishima

※本記事は「井伊直弼」特集の最終章です。

世間が知らない「水府陰謀説」

井伊直弼の名前には、今も「独裁者」「非情」「暴君」という形容詞がついて回る。
けれど、同時代の幕閣が、本当に彼をそう見ていたかといえば、事情は少し違う。

実は、「水戸には何か裏がある」という疑念は、井伊が大老になるより前から、幕閣の内部に静かに広がっていた。

水戸派は、幕閣の中にもいた——老中首座・堀田正睦の立ち位置

堀田正睦の肖像写真(老中首座・佐倉藩主)
堀田正睦(1850年頃撮影/作者不明/Wikimedia Commons パブリックドメイン)

ここが、この時代のもっとも見落とされやすい点だ。

水戸派——より正確には、一橋慶喜擁立派——は、水戸藩の内側だけにいたのではない。幕閣の中枢にも、彼らに心を寄せる人物がいた。

その代表が、老中首座 堀田正睦 である。
春嶽は『逸事史補』のなかで、さらりとこう書いている。

老中堀田侯も矢張我輩の有志と、心を同ふするものなり。

「我輩の有志」——すなわち慶喜擁立派。
老中の最高位・堀田が、水戸派に心を寄せていた。被害者自身の筆から、そのことが淡々と明かされている。

堀田正睦、日米修好通商条約の勅許を求めて京都へ

この事実は、日米修好通商条約をめぐる動きに、ひとつの影を落とす。

安政五年、堀田は条約の勅許を得るために上洛する。
しかし結果は完全な失敗。朝廷の許しは下りず、交渉は空転した。

ここで、歴史は問いを残す。

——堀田は、本気で勅許を取ろうとしていたのか。

彼は一橋派だった。つまり、この勅許取得に必ずしも一枚岩で臨んでいたとは言えない側である。朝廷が勅許を拒めば、紛糾の責任は開国推進派に向く。そのことを、堀田がまったく計算していなかった——とまで言い切れるだろうか。

もちろん、これは読みすぎかもしれない。
けれど歴史の面白さは、まさにこの「読みすぎか、それとも真実か」の境界線にこそある。

▶ 詳しくは [水戸藩への密勅と安政の大獄の発端] をご覧ください。

陰謀説は、井伊が作ったのではない

ひとつ確かなのは——
堀田の勅許交渉が頓挫したころ、幕閣の内部にはすでに、「水戸系の働きかけで、何かが裏で動いている」という空気が熟していた。

大目付の探索報告、老中筋の内評、城中の風向き。
井伊直弼は、この空気のなかへ大老として登板した。

つまり、井伊直弼は「水府陰謀」という物語を、ひとりで作り上げたのではない。
すでに幕閣のあいだに広がっていたこの疑念を、老中評議の合意のもとに、行動に移した人だった。

松平春嶽『逸事史補』という史料の性格

この「水府陰謀説」を考えるとき、避けて通れない書物がある。
松平春嶽『逸事史補』——井伊に厳譴(謹慎処分)を受けた被害者自身が、後年みずから筆をとって残した回想録だ。

ただし注意がいる。
『逸事史補』は、厳密な意味での一次史料ではない。春嶽の実体験と、同時代に耳に入った風聞、そして彼自身の思い込みが混じり合った、あくまで春嶽の回想である。

しかしこの書物は、幕末史にとって値千金のものだ。現場に居合わせた人間にしか書けない肌の温度が残っているからである。そしてその温度のなかに、世間の幕末史がふつう触れない一行が、まぎれている。

被害者が、加害者を擁護した

松平春嶽(慶永)の肖像写真(福井藩主・幕末四賢侯)
松平春嶽〔慶永〕1880年撮影(Wikimedia Commons パブリックドメイン)

「水戸老公の私心は頗(すこぶ)る盛んなり。
此事件については、我等も老公のために売られたり」

「売られた」。
慶喜擁立運動をともにしたはずの盟友——水戸斉昭(景山公)を、春嶽はこう総括している。これが、彼の回想の結論だった。

春嶽が見抜いた「私心」

徳川斉昭(水戸烈公)の肖像写真
徳川斉昭・水戸烈公(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』所収/Wikimedia Commons パブリックドメイン)

春嶽はさらに踏み込む。

水戸老公は世子に慶喜公をたてんとするは、
天下の公理の様には有れ共、畢竟は……
私利を営ずるの企なり。

慶喜を将軍にしようとしたのは、「天下のため」ではなかった——父が、自分の子を将軍にしたい。春嶽の目には、斉昭の意図がそう映っていた。

「我も景山公に欺かれたりと思へり」

春嶽は、こう明確に書き残している。

▶ 慶喜と紀伊慶福の対立については [将軍継嗣問題] で掘り下げています。

そして、井伊への評価

驚くべきことに、春嶽は井伊直弼を「悪」とは書かなかった。

彦根公の英断は、今に至りては感ずべし。
彦根侯は、自分の私慾を逞(たくまし)ふする為ばかりにてはなし、
徳川氏の威光を盛んにせんとの企なり。
あながち悪むべきの所行にもあらず。

井伊の厳譴によって霊岸島に幽閉された人物の筆である。
恨み節ではない。恨みを超えた、ある種の「納得」が、ここには記されている。

春嶽が書いた、もうひとつの「もし」

そしてもうひとつ、春嶽は痛烈な仮定を残している。

此人(慶喜)大統を継ぎたらば、
徳川家の滅亡を早く招くなるべし。

紀伊公立ずして慶喜公大統を継ぎしならば、
烈公の威権日に熾(さか)んにして、水府の攘夷党振起し、
外国人を殺傷する事多かるべし。

もし井伊が慶喜を将軍にしていたら。
水戸の攘夷党は勢いを増し、外国人襲撃が頻発し、徳川は維新を待たずに崩れていたかもしれない。

井伊が紀伊慶福を選んだことが、徳川の寿命を延ばした。
——春嶽自身が、そう書き残している。

「悪役」ではなく、「止めた人たち」

桜田門外の変を描いた浮世絵(1860年の井伊直弼暗殺事件)
桜田門外の変(1860年・月岡芳年画と伝わる浮世絵/Wikimedia Commons パブリックドメイン)

桜田門外の変で、井伊直弼は倒れた。
享年46、雪の降る日の朝だった。

彼の手法は、確かに苛烈だった。
けれど、それは彼ひとりの独断ではない。老中評議を経た、合議の結論でもあった。

そして彼らが向き合っていたのは、井伊就任以前から幕閣のなかに広がっていた疑念であり、のちに被害者自身が「我等も売られたり」と書き残すほどの、深い私心と陰謀の網だった。

『逸事史補』はあくまで春嶽の回想である。そのすべてが客観的史実とは限らない。堀田正睦が本当に本気で勅許を取りに行ったのか——それもまた、誰も確かめようのない問いである。けれど、当事者がこう書き残したという事実そのものは、動かない。

井伊直弼は、教科書の語る「悪役」ではなかったのかもしれない。
彼と老中たちは、幕末という時代の病の根を、正面から受け止めた人たちだった。

そしてその病は、井伊が斬られたその日も、確かに生きていた。

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霧島@山好き
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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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