幕末

文久三年「勅使の夜」——松平春嶽、攘夷の勅使に割腹を覚悟す

松平春嶽が割腹を覚悟した文久三年「勅使の夜」のアイキャッチ
kirishima

※本記事は松平春嶽シリーズ 第2弾です。
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プロローグ:深夜の急使

文久三年(1863年)二月十一日。
夜十時を、少し過ぎた頃だった。

京都の街は、寝静まっていた。
攘夷の嵐が日本中で吹き荒れていたが、それでも夜は来る。月の冴える春の宵、二条通りの一角——三井八郎右衛門の屋敷を借りて旅館としていた越前藩の役人たちは、すでに床に入っていた。

その静寂を破って、馬蹄の音が響いた。

中根雪江(なかね せっこう)、春嶽の側用人。彼の元へ、一通の書状が届く。差出人は、原市之進(はら いちのしん)——一橋慶喜の用人である。

——只今、勅使本願寺へ被参候に付、
 一刻も早ふ御旅館へ御出有之候様。

短く、それだけ書かれていた。
中納言様(慶喜)が、お呼びです、と。

雪江は走った。眠っていた春嶽の元へ。
春嶽は、跳ね起きた。

取物も不取敢、直に夜中馬上にて東本願寺へ罷越候
——のちに春嶽は、こう書き残している。
取るものも取りあえず、馬を駆って、東本願寺へ向かった、と。

このとき春嶽、三十四歳。
政事総裁職という、徳川幕府の最高職にあった。

衣冠の二十余名

三条実美の肖像写真(明治期・正装)
三条実美——あの夜、勅使として春嶽の前に現れた人物。のちの太政大臣。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

東本願寺・大書院。

春嶽が駆けつけたとき、すでに山内容堂と松平容保(肥後守)も到着していた。
慶喜の側には、目付の沢勘七郎と杉浦正一郎。

誰も、勅使が何のために来るのか、知らなかった。

「如何の事に候哉、評議をすれ共勅使の来候趣意第一不分」
——どう振る舞うべきか、評議しても、勅使が何しに来たのかすら分からない。

「多分攘夷の事なるべし、こまりたるもの也」
——きっと、攘夷だろう。困ったことだ。

それぞれが、ただ心配する以外、何もできなかった。

慶喜は麻上下を着けていた。
春嶽も、念のため麻上下を持参していたので、それに着替えた。
そして、ただ待った。

四ツ時頃。すなわち、午後十時頃。
「只今、勅使御出なり」と告げる声がした。

衣冠を整えた一団が、東本願寺の上段に列座した。

  • 三条大納言実美——のちの太政大臣
  • 姉小路公知
  • 滋野井公寿
  • 豊岡随資
  • 壬生修理大夫
  • 沢宣嘉

その他、二十名以上。

全員が、衣冠だった。
こちらは、麻上下。

格の違いが、装束の違いとなって、空気の中に張り詰めていた。

「死をもって尽力するより外なし」

勅使は、口を開いた。

——夷狄(いてき)掃攘の儀は、すでに幕府が朝廷に約したではないか。
 にもかかわらず、今日まで延滞している。
 これは勅意違背である。
 聖上、殊の外、叡慮を悩まされている。
 後見職と総裁職、すなわち慶喜と春嶽は、
 急ぎここで攘夷の期限を定めて言上せよ。

慶喜が答えた。
「攘夷の儀は必ず奏功つかまつり候へ共、夫(それ)には種々の訳柄も有之(これあり)」と。
ただちには答えられない、暫時相談したい、と。

慶喜と春嶽は、その場を退いた。

別室で、慶喜・容堂・春嶽、肥後守、沢勘七郎、杉浦正一郎、岡部駿河守らが集まった。

勅使は、本堂を退かなかった。
二日でも三日でもこゝに逗留し返答を待つ」と告げていた。

こちらが折れるまで、帰らない、と。

このとき、春嶽は腹を決めた。

「私一人は引請(ひきうけ)、勅使の前へ罷出、断然たる御請申上、勅使彼是被申候はゞ、於其場割腹以死為国家尽力より外なし」

——私一人で引き受けます。
勅使の前に出て、攘夷はできないと、はっきり申し上げる。
それで勅使が責めるなら、その場で腹を切ります。
死をもって国家のために尽くす、それより外、道はありません。

これは、政事総裁職としての判断ではなかった。
これは、松平春嶽という一人の男の、覚悟だった。

「慶喜公・容堂公・岡部・杉浦・沢等も驚き、或は笑ひ或泣き談ず、談論不定」
——皆、驚いた。ある者は笑い、ある者は泣いた。
笑う者は、その悲壮を笑ったのだろう。
泣く者は、その純粋を泣いたのだろう。

容堂が、口を開いた。

「私は後見でなし、惣裁職でなし、土佐容堂なり」
——私は職にない。土佐の容堂、それだけだ。
「幸三条公は親類なり」
——三条公とは親戚だ。私が横から口を添えよう、と。

春嶽の覚悟を、容堂が、現実の交渉に引き戻した。

乍不同意同意せり

議論は、夜を貫いた。

一橋慶喜(後の徳川慶喜)30代の肖像写真
一橋慶喜(後の徳川慶喜・最後の将軍)——春嶽に「同意」を迫った男。文久三年、二十七歳。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

結局、慶喜が決めた。

——攘夷の期限は、この場では決められない。
 将軍家茂の上洛を待ち、諸大名が京都に揃うのを待って、その上で決定する。
 そう答える。

慶喜の判断は、現実的だった。
将軍はまだ江戸にいる。攘夷を実行するなら、御三家・諸大名への通達、兵備の準備、どれをとっても、十日や二十日でできる仕事ではない。今は、時間を稼ぐしかない。

この返答を、勅使は受け入れた。
「必ず大樹公御上洛候はゞ御両人にて御請合相成候哉」と念を押して。
帰っていった。

春嶽は、書いている。

「後見慶喜公の決心故、我も乍不同意同意(ふどういながらどうい)せり」

——慶喜公が決めたことだから、私は同意できないけれども、同意した。

「乍不同意同意」。

この六文字に、春嶽の屈辱の全てがある。

割腹を覚悟した男が、一夜のうちに、現実主義に飲み込まれた瞬間。
死を選ぶより、生きて欺(あざむ)くことを選んだ瞬間。

「慶永実に奉欺朝廷候儀にて、とても出来ない攘夷を明白に説明せずして、一寸延しの返答恐入、窃(ひそか)に怒気を懐き、一言も不申候」

——朝廷を欺くこの所業、できない攘夷を明白に説明せず、その場限りの引き延ばしで答える。
私は密かに怒りを抱いて、一言も発しなかった。

春嶽は、慶喜の判断に従った。
だが、その心の中で、彼は朝廷をも、慶喜をも、そして自分自身をも、許せていなかった。

翌朝五時、死人のごとく

東本願寺・御影堂門と水鏡の風景
東本願寺・御影堂門。あの夜、春嶽が七時間を過ごした大書院は、ここから見える。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

勅使一同が東本願寺を退いたのは、九ツ半時頃。
午前一時頃である。

慶喜・春嶽・容堂・肥後守は、ようやく一息ついた。

「何分空腹相成候故、握飯酒肴をたべ直に帰館致し候」
——空腹だったので、握飯と酒と肴を口にして、それから旅館に帰った。

帰館は、翌朝五時。

直に暫時就寝、心配と疲労とにて死人の如く、前後を忘れ寝たり
——倒れるように床についた。
心配と疲労で、死人のように、前後不覚で眠った。

春嶽は、書いている。

「此時の苦痛苦悩は、筆紙につくしがたし」
——あの夜の苦痛と苦悩は、筆では尽くせない、と。

夜十時から、朝五時まで、七時間
若き総裁職は、その七時間で、自分の理想を一度殺した。

蹴上の追手

二月十三日、将軍家茂が江戸を発した。
三月四日、入京。
四月、男山八幡宮への天皇行幸——攘夷祈願の行幸。家茂は称病で陪従せず、慶喜が名代を務めた。

攘夷論は、日に日に勢いを増していった。
公卿は攘夷を叫び、藩士はそれに同調し、浪人は煽り立てた。
朝廷は、再び攘夷期限を迫った。

春嶽は、限界に達していた。

「依病五六日引籠」
——病と称して、五日六日、引きこもった。

そして、慶喜宛に辞表を提出した。
だが、後見職と総裁職は朝廷からの勅命である。幕府だけで御免を出すことはできない。御所への伺いが必要、と。

——時間がかかる。

そう判断した春嶽は、回答を待たなかった。
辞表を置いて、福井へ向かった。

京都を発足して蹴上に到る頃は、跡より追手掛られし心地せり

明治期の蹴上インクライン・1902年の古写真
明治三十五年(1902年)の蹴上——琵琶湖疏水のインクライン。春嶽が「追手掛られし心地」で駆け抜けた峠は、その後、近代化の象徴となった。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

蹴上(けあげ)。
東山の峠を越えて、近江・北陸へ向かう街道の入り口。

ほんの数ヶ月前、春嶽はこの蹴上で、上洛してきた将軍家茂を出迎えていた。
「実に美くしき御行列なり、京都の人民立錐の地なく見物されたり」
——あの春の光景。

その同じ場所を、春嶽はいま、追われる気持ちで駆け抜けていた。

迎える側から、逃げる側へ。

総裁職、捨てて帰る。

幕府からは、追って沙汰が来た。
「対朝廷不相済儀(あいすまざるぎ)」——朝廷に対して申し訳が立たない、として、辞職は認める、ただし謹慎処分とする、と。

形式的な処分だった。
城外に出ない限り、屋敷の庭は歩いてよい。
攘夷について意見があれば、書付で老中に出してもよい。

そして、内々の話として、こんな声が春嶽の耳に届いた。

「幕府にても春嶽殿の惣裁職辞表差出帰国は、奇々妙々と内々は感心致候」
——春嶽殿が辞表を出して帰国したのは、奇々妙々、見事な手だ、と幕府も内心は感心している、と。

攘夷の責任から、誰も逃げたかったのである。
春嶽は、最初に、逃げた者だった。

エピローグ:生き延びた者の筆

福井市・養浩館庭園の池と築山
福井市・養浩館庭園——越前松平家の藩邸跡。春嶽が「内々の庭は歩行され候ても宜」と謹慎中に歩いた庭。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

十数年後。
明治を迎え、福井で晩年を過ごす春嶽は、筆を取った。

一夜の修羅場。割腹の覚悟。乍不同意同意。蹴上の追手。
すべてを書き留めた。

逸事史補』——「歴史の補い」と題して。

そこには、誇りはなかった。
むしろ、自嘲があった。

別の頁(ページ)で、彼はこう書いている。
実に今にて考ふれば、小児争ひの如し
——今になって思えば、子供のケンカのようだった、と。

割腹を覚悟した夜さえ、彼は晩年「子供のケンカ」と笑った。

だが、その「子供のケンカ」を生きた者だけが、そう書ける。

明治の春嶽は、左内を救えなかった夜の春嶽でもあり、勅使の前で割腹を覚悟した夜の春嶽でもあり、蹴上で追手を恐れた朝の春嶽でもあった。

すべてを引き受けて、生きた。
死を選ばず、敗北を引き受けて、それを記した。

第1弾「飛雪の朝」で見送った橋本左内が、純粋なまま二十六歳で散ったのに対して——
春嶽は、汚れたまま、矛盾を抱えたまま、六十年近くを生きた。

そして、左内のことも、勅使の夜のことも、自分の手で書き残した。

——生き延びた者にしか、書けない歴史がある。

文久三年二月十一日、夜十時。
あの夜、東本願寺の上段に列座した二十余名の衣冠たちは、自分の運んだ勅命の重さを、本当には知らなかったかもしれない。

知っていたのは、麻上下姿で別室に下がり、握り飯をかじり、朝五時に死人のように眠った、若き総裁職だった。

旅の手帖——勅使の夜の舞台を歩く

東本願寺(京都市下京区)

あの夜の現場。現在の阿弥陀堂・御影堂は明治期の再建だが、御影堂門の威容は、あの夜と変わらない。
慶喜の旅館があった大書院の場所に立つと、「衣冠の二十余名」と「麻上下の四名」の対峙が、足元から立ち上がってくる。

蹴上(京都市東山区)

東山峠から琵琶湖疏水へと続く界隈。
現在は南禅寺・インクラインで知られる観光地だが、ここが「追手掛られし心地」の蹴上である。
京都に「迎える」側として立った春嶽が、数ヶ月後に「追われる」側として越えた峠。

福井市・養浩館庭園

春嶽の藩邸跡に残る回遊式庭園。
京都から逃げ帰った春嶽が「謹慎」を命じられたとき、「城外さへ御出無之候はゞ、内々の庭は歩行され候ても宜」——と幕府が認めたのが、この内庭である。

福井市立郷土歴史博物館

春嶽の遺品・直筆書状を所蔵。
『逸事史補』そのものは国立国会図書館所蔵だが、関連史料に触れることができる。


次回予告——春嶽シリーズ 第3弾

割腹を覚悟して敗れた春嶽は、一年後、再び京都に戻る。
今度は、京都守護職として。

しかし、その復権もまた、わずか五十一日で終わった。
彼が見たのは、慶喜が金で買い戻した幕府の威光と、派閥政治に絡め取られていく朝廷の姿だった——。

(2026年5月下旬公開予定)

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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