安政の大獄の真相|井伊直弼は本当に独裁だったのか?五手掛と黄紙から再検証
安政の大獄——井伊直弼と聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは、この名だろう。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎……百人を超える志士を処罰し、死に追いやった、幕末最大級の弾圧。
その中心にいたのが、大老・井伊直弼である。
だが、本当に、すべては彼ひとりの意志だったのだろうか。「井伊直弼が死刑を決めた」——この通説を、一次史料から検証していきたい。
(大獄に至る経緯——密勅と井伊の決断は、別稿「安政の大獄とは|井伊直弼はなぜ断行したのか【第5回】」でたどっています)
- 宮堂上家処罰者:14人
- 大名:7人
- 評定所処分者:69人
その内訳は、廷臣・幕臣・諸藩士・儒者・神職・僧侶・庶民に及び、死刑は8人に達した。さらに処罰前の自殺・病没も10人にのぼる。

この処分を「重い」と見るか「必要」と見るかで評価は大きく分かれる
「直弼が死刑を決めた」という通説
歴史の教科書やドラマの多くは、こう描く。大老・井伊直弼が、みずからの独断で、反対派を次々と死刑に処した——と。
苛烈な弾圧者、あるいは冷徹な独裁者。それが、井伊直弼という人物に貼られた、もっとも強いレッテルである。
この問題を語る際、よく引用されるのが松平慶永の『逸事史補』である。
ここに一つの話がある。
橋本左内らが死刑になった件について幕府役人から聞いたが、実に憐れであり、残念でならない。
取り調べの結果、特に重大な罪があるわけではなかったが、無罪とも言えないため、流罪や追放程度の案が作られ、老中もこれでよいと決定した。
しかし大老に提出された後、「少し考える」として保留され、数日後、突然「死刑」と書かれた。
その場の者は皆驚いたが、大老の権勢が強く、誰も異議を唱えられず、結果として彼らは処刑された。
この事はあまり知られていないので、ここに記しておく。
※この記述は松平慶永の回想による伝聞であり、一次史料ではない点に注意が必要である。
この記述から、「井伊直弼が独断で死刑にした」というイメージが広まった。しかし本当に、そうだったのか。
しかし本当に独断だったのか
幕府という組織のありようを、まず確かめておきたい。
一人の大老が、思うがままに人を処刑できる。そんな権限が、はたして江戸幕府に存在しただろうか。
「黄紙」が示す事実
安政の大獄の処分決定に関わる史料に、「黄紙」と呼ばれる罪状案がある。彦根藩井伊家文書に現存する史料である(母利美和『井伊直弼(幕末維新の個性6)』)。
この黄紙、すなわち罪状の原案をつくったのは、五手掛の役人たちだった。そこに、刑を重くするなどの指示を書き加えた「附札」が付されている場合があるが、この附札を付けたのは、五手掛の役人、あるいは老中・松平乗全(まつだいら のりやす)らであったと考えられている。
たとえば橋本左内の名に付された附札には、「此れより一等を重くする」との書き込みが確認できる。この筆跡は、少なくとも直弼のものではない。
ただし、すべての附札について直弼の関与がなかったと断定できるわけではない。直弼自身が手を加えた分がある可能性は残るが、それは現時点では確認されていない。「直弼が独断で重罪化した」と言い切れる証拠もなければ、「直弼は一切関与していない」と言い切れる証拠もない——という、両論を保留したままの状態が、史料の実際である。
はっきりしているのは、少なくとも罪状の原案づくりそのものは、直弼ひとりの手によるものではなく、五手掛という複数の役人の合議によって進められていた、という点である。

安政の大獄は「個人の暴走」ではなく「制度の中の判断」だった
幕府政治は合議制だった
幕末の幕府政治は、老中評議と将軍への伺いを前提とする、合議制であった。
長野義言(ながの よしとき/井伊の腹心)の書簡にも、事を専決することの難しさが記されている。大老といえども、独りで物事を決められる立場ではなかった。
五手掛役人とは何か(図解)
安政の大獄の審理を実際に担ったのは、「五手掛(ごてがかり)」と呼ばれる役人たちである。
寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・評定所役人——これら五つの役職から選ばれた者たちが合同で審理にあたり、処分の原案を作成した。死刑の原案は、井伊直弼ではなく、この五手掛役人によって組み立てられたものだった。
なお、この審理の記録である「黄紙」および「附札」は、彦根藩井伊家文書として、現在も彦根城博物館に所蔵されている。

👉 刑の重さ(流罪・死刑など)は、まず五手掛で決定される
大老の役割は、ゼロから死刑を「決める」ことではなく、すでに積み上がった合議の結論を、「決裁する」ことにあった。
幕末に「刑法」はあったのか
ここまでは、「誰が決めたか」——決定権の所在の話であった。もう一つ、確かめておくべきことがある。「その処分は、当時の法として、正当だったのか」という問いである。
江戸幕府には、現代のような体系だった成文刑法は存在しなかった。基準となったのは、慣習法と儒教的な秩序観であり、八代将軍・吉宗の時代に編まれた『公事方御定書』も、あくまで参考資料的な性質のものだった。

つまり、現場の奉行所や評定所の裁量が、処分の重さを大きく左右する仕組みだったのである。
処罰は恣意か、統治か
吉田松陰、橋本左内は斬首。梅田雲浜は獄死。処罰の重さは、当時の法感覚では「国事犯」「謀反の予備軍」とみなされたことに基づく。
だが、その運用を仔細に見ると、「何をもって国事犯とするか」の基準そのものが、政治的な立場——幕政への異論を唱えたかどうか——によって左右されていたことが見えてくる。
形式的な手続き(五手掛の審理、老中評議、大老の決裁)は、守られていた。しかし、その手続きの中身に、「政治的な意図」と「見せしめの効果」が色濃く滲んでいたことも、また事実である。
現代史学は「違法」と見るか
現代の法感覚、人権感覚に照らせば、思想や政治的立場を理由に命を奪うことは、明確に「弾圧」であり「違法」と評価されるだろう。
しかし、当時の法体系そのものの中では、形式上、手続きに大きな瑕疵はなかった。「法の枠内で行われた、政治的な粛清」——それが、もっとも実態に近い表現かもしれない。
ただ、この「弾圧」の背景も見ておく必要がある。戊午の密勅は、朝廷が幕府を通さず一大名家へ直接勅書を下すという、幕藩体制の根幹を揺るがす事態だった。しかも幕府は、その動きを事前に察知できなかった。京での情報収集を担っていた長野義言ですら、密勅降下の兆しを掴みきれていなかったのである。
体制の土台が、足もとから崩れかねない——その危機感が、幕府を強硬な弾圧へと駆り立てた。裏を返せば、安政の大獄は、単なる一大老の恣意というより、揺らいだ権威を力ずくで立て直そうとした、幕府という統治機構そのものの、必死の自己防衛でもあった。
根本にあるのは、法と政治の境界が、まだ十分に分かれていなかった、幕末という時代そのものの未成熟さである。そしてその未成熟さのなかで、体制を守ろうとする力学が、弾圧をいっそう苛烈なものにしていった。
幕府内部の対立と直弼の苦悩
幕閣が一枚岩でなかったことは事実である。一橋派と南紀派の対立は根深く、大獄のさなかにも、閣内の意見の対立は絶えなかった。
だが、それは「大老が独りで決める」ことを意味しない。史料をたどると、井伊直弼は、この非常時にあってもなお、老中評議と将軍への伺いを前提とした意思決定を、一貫して基本としていたことが分かる。
安政六年九月にも、直弼は老中の間部詮勝・内藤信親・脇坂安宅へ宛てて書状を送り、事の次第を相談している。また、幕政参与の田安慶頼、京都所司代の酒井忠義、老中・松平乗全らとも、たびたび文を交わし、閣内で評決がまとまりにくい局面では、関白・九条尚忠との協調(「御執政」)まで模索していた。
大老とは、幕政の頂点に立つ役職でありながら、独断で事を決められる地位ではなかった。井伊直弼の苦悩は、「独りで重責を背負う」ことにではなく、むしろ、意見の割れる閣内をどうまとめ、老中・将軍という制度の枠組みのなかで、いかに合意を取り付けるか——その調整そのものにあったのである。
だが、この「調整」は、決して穏やかなものではなかった。
安政六年(一八五九)六月頃、直弼は老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の増長に苦しめられていた。条約調印の弁疏(べんそ/釈明)のため上京していた間部は、朝廷から一応の承認(「叡慮氷解」)を得た功績を誇るようになり、江戸に戻ってのちも、しだいに幕府内での発言力を強めていく。
直弼が老中・松平乗全へ宛てたとみられる書状には、苦い胸の内が綴られている。間部が自分の悪口を言いふらしていること、老中・太田資始までも間部に同調していること、そして「何事も私の知らない内に決まってしまう」——大老でありながら、蚊帳の外に置かれていく、その孤立感である。
追い詰められた直弼は、「小子(このわたくし)職分相立ち申さず」——この職を全うできない、と退役を願い出るところまで書いている。ただし、こうも書き添えた。「不本意である」と。辞めたいのではない。辞めざるを得ないほど、疲れ果てていたのである。
それでもなお、直弼は職務を投げ出さなかった。水戸一条の始末に奔走するなかで、彼が老中たちへ宛てた書状に記したのは、部下たちへの気遣いだった。
藩士の暴発さえ招きかねない危険な水戸藩邸へ、上使として赴いた松平信和(まつだいら のぶかず)について、直弼は「死地に入り、抜群の御手柄」と、その働きを高く評価している。そして望んだのは、信和への格別な褒美ではなく、ただ「すらりと御役御免(おやくごめん)を仰せ付けていただければ、十分の至り」——重ねて課されていた御用を、どうか解いてやってほしいという、ささやかな願いだった。
では、直弼自身はどうしたか。彼は、この一件における自分自身への「御賞」を、辞退している。
命がけで働いた部下には報いを求め、自分自身は、いらないと言う。老中に出し抜かれ、悪口を言いふらされ、蚊帳の外に置かれて、辞職まで漏らすほど疲弊しながら——それでも他者の労をねぎらい、自分を後回しにする。剛毅果断・独断専行と評されてきた大老の、教科書には載らない素顔が、ここにある。

権力に執着した人物像とは異なる姿が見える
大獄終息と「水戸一条」の決着
安政の大獄は、水戸藩に関わる一連の処分——「水戸一条」の決着をもって、ひとつの区切りを迎える。その中心にあったのは、戊午の密勅を主導したとされた、前藩主・徳川斉昭への処断であった。
安政五年八月二十七日、評定所は水戸藩関係者を中心とする断罪を決議する。斉昭には国元永蟄居(自国での謹慎)。藩主・徳川慶篤には、父・斉昭や家臣への監督不行き届きを理由に差控。水戸家の連枝である高松藩主・松平頼胤、守山藩主・松平頼誠、府中藩主・松平頼縄にも、本家の取り締まり不行き届きにより差控。水戸藩の附家老・中山信宝も差控。将軍継嗣問題で水戸方についた一橋慶喜には、隠居・謹慎。
前老中の太田資始には慎み、堀田正睦・松平忠固には依願隠居が命じられた。
処分は、九月にかけて幕府諸役人へも広がっていく。九月六日、直弼は水戸藩の陰謀説を確信したとされ、この「水戸一条」の落着によって、ようやく大獄はひとつの終息を迎えたのである。この一件で処断された水戸家への遺恨が、のちの桜田門外の変(第6回)へと、確かに影を落としていく。
結論:安政の大獄の真相
安政の大獄は、井伊直弼ひとりの独断でも、また完全に無罪な統治行為でもなかった。
決定権の所在から見れば、それは五手掛の審理と老中の合議を経た、幕府という組織全体の判断だった。井伊直弼は、その最終決裁者ではあったが、好き勝手に処刑を命じられる立場にはなかった。
一方、合法性から見れば、形式的な手続きは守られていたものの、その運用には政治的な意図が強く働いており、現代の基準では「弾圧」と呼ばれてしかるべきものだった。
ただし、それは悪意だけから生まれたものではない。戊午の密勅という、幕府の権威を根底から揺るがす事態を防げなかった危機感が、体制を守ろうとする力を、より強硬な方向へ押し出した——その面も、見落とすべきではない。
「独断ではなかった」ことは、「弾圧ではなかった」ことを意味しない。だが同時に、「弾圧だった」ことは、「体制維持のための必死の判断だった」こととも矛盾しない。組織による合議もまた、時に個人の独断以上に、苛烈な結論を生み出すことがある。井伊直弼という一人の人物の悪意に帰す前に、彼を押し出した幕府という組織そのものの構造と、その存亡をかけた危機感を、見つめ直す必要があるのではないだろうか。
そして、その組織の中心にいたのは、教科書が語るような、剛毅果断・独断専行の独裁者ではなかった。老中に出し抜かれ、悪口を言いふらされてなお、部下の労には報いを求め、自らへの賞は辞退する——そんな、疲れ、悩み、それでも職責を手放さなかった、一人の人間だったのである。
(井伊が大獄に至った経緯は、別稿「安政の大獄とは|井伊直弼はなぜ断行したのか【第5回】」で。大獄の発端となった戊午の密勅は「戊午の密勅|安政の大獄の発端」、最初の犠牲者・梅田雲浜については「梅田雲浜とは|安政の大獄、最初の標的」で、それぞれくわしくたどっています)
📚 このシリーズを読む
- 安政の大獄とは|井伊直弼はなぜ断行したのか【第5回】
- 戊午の密勅|安政の大獄の発端
- 梅田雲浜とは|安政の大獄、最初の標的
- 安政の大獄の真相|井伊直弼は弾圧者・独裁者だったのか(本記事)
▶ この記事は「井伊直弼シリーズ」の一篇です。生涯をはじめからたどる → 井伊直弼 完全ガイド
