【第5回】安政の大獄は「弾圧」か?井伊直弼の真意と幕末法制度を読み解く
安政の大獄——幕末、大老・井伊直弼が主導した、幕政史上最大級の弾圧である。吉田松陰、橋本左内ら、若く優れた志士たちが次々と処罰され、その数は百人を超えた。なぜ、これほど苛烈な弾圧に至ったのか。その経緯を、順を追ってたどりたい。
条約は、結ばれた。
安政五年(一八五八)六月、井伊直弼は勅許を待たぬまま、日米修好通商条約に調印する。戦を避けるための、苦渋の時間稼ぎであった(→第4回「国難」)。
だが——それは、終わりではなかった。むしろ、国を裂く嵐の、始まりだった。
大老・井伊直弼の前には、いま、新たな難題が積み上がっていく。条約への反発、将軍の跡継ぎをめぐる遺恨、そして——帝の、勅書。
大老が背負った三つの難題

ひとつは、条約への怒りだった。異国に港を開いたその決断は、「帝の許しも得ぬ暴挙」として、攘夷を唱える志士たちの激しい反発を招いた。
ふたつは、将軍の跡継ぎ問題。井伊は紀州の慶福(のちの家茂)を推し、一橋慶喜を担ぐ一派と鋭く対立していた。条約と継嗣、二つの争いは絡み合い、幕府を二分していく。
そして三つめ——もっとも井伊を震撼させたものが、まもなく京から下る。
戊午の密勅──幕府の頭越しに
安政五年八月、孝明天皇が、水戸藩に直接、勅書を下した。
異例であった。本来、朝廷の意向は幕府を通して伝えられる。それが、幕府の頭越しに、一大名家へ直接届けられたのである。内容は、条約調印を責め、幕政の改革を求めるもの。世に言う「戊午の密勅」である。
井伊にとって、これは単なる叱責ではなかった。朝廷と志士が、幕府を飛び越えて手を結びはじめた——それは、二百五十年つづいた幕府の秩序が、足もとから崩れかねない兆しだった。
(この密勅がどう画策され、どう下されたのか、その全貌は別稿「戊午の密勅|安政の大獄の発端」でくわしくたどっています)
なぜ「弾圧」だったのか──井伊の決断

秩序が崩れる。その予感が、井伊直弼を強硬へと駆り立てた。
彼の立場に立てば、こう見えていたはずだ。条約は、戦を避けるための苦渋の決断だった。それを「暴挙」と罵り、あろうことか帝を動かして幕府を揺さぶる者たちがいる。放置すれば、国はばらばらになる——。
大老とは、幕府の秩序を守る、最後の砦である。井伊は、その責を、誰よりも重く背負っていた。だからこそ彼は、ためらわなかった。密勅に関わった者、条約に異を唱えた者、幕政を批判した者——それらを、根こそぎ処断する道を選ぶ。
それが、のちに「安政の大獄」と呼ばれる、苛烈な弾圧であった。
大獄はじまる──梅田雲浜から、松陰・左内へ
最初に捕らえられたのは、梅田雲浜という、一人の浪士だった。
(なぜ最初の標的が彼だったのか——その理由は別稿「梅田雲浜とは|安政の大獄、最初の標的」に記しています)
そこから、弾圧の網は一気に広がる。捕縛された志士は百人を超えた。そして安政六年、ついに刑は極まる。福井の俊英・橋本左内が斬首。長州の吉田松陰もまた、刑場に散った。

いずれも、二十代から三十代の、これからの日本を担うはずの頭脳であった。井伊は、未来の芽ごと、摘み取ったのである。
まとめ──では、それは「独裁」だったのか
こうして、井伊直弼は一時の秩序を取り戻した。反対の声は沈黙し、幕府の権威は、表向き、回復したかに見えた。
だが——その代償は、あまりに大きかった。摘み取られた若い才能への怒りは、地下水のように広がっていく。そしてそれは二年後、桜田門の雪の中で、井伊自身の命によって支払われることになる(→第6回「桜田門外の変」)。
ここまで、井伊が大獄に至った「経緯」をたどってきた。だが、こう問う人もいるだろう——それにしても、なぜあそこまで苛烈だったのか。あれは一人の大老の「独裁」であり「暴走」だったのではないか、と。
その問いには、稿を改めて、史料から正面から答えたい。処刑を決めたのは、本当に井伊直弼ひとりだったのか。当時の法では、それは「違法」だったのか——。
→ 別稿「安政の大獄の真相|井伊直弼は弾圧者・独裁者だったのか」で検証しています。
