幕末

小児争ひの如し——元治改元の七日間

松平春嶽「小児争ひの如し」のアイキャッチ。令徳と元治、二つの元号候補の対比
kirishima

「実に今にて考ふれば、小児争ひの如し」——晩年の春嶽は、この騒動をそう振り返った。だが元治元年二月、これは大の大人たちが本気で争った、幕末の一大事だった。

蹴上の坂を越え、政事総裁職を投げ捨てて福井へ逃げ帰った、あの文久三年三月から、およそ一年(→第7弾「蹴上の追手」)。年が改まり文久四年、春嶽は再び京にあった。

たかが元号、されど元号。老中も、一橋慶喜も、御所の関白も、中川宮も——たった二文字を巡って、七日間、真剣に駆け回ることになる。

松平春嶽の肖像

「いやな年号だ」──二条城老中部屋の一幕

文久四年(一八六四)は、干支でいう甲子きのえねにあたる。古来、甲子の年は改元をする慣わしがあった。手順は決まっている。関白から将軍へ内々に相談があり、将軍に異存なしとの返答があれば、内々に確定し、その後に表向き発令される——それが常例であった。

ここで、一つ付け加えておきたい。江戸時代に改元する理由は、甲子革令だけでなく、天皇の代替わり・祥瑞・災異・辛酉革命など複数あった。なお、明治期以降は、天皇一代に一つ(一世一元)と改められた。

この年もその手順どおり、関白・二条殿から内談があった。

たまたま用事があって二条城へ登城していた松平春嶽は、老中部屋でこの話に行き当たる。折しも、一橋慶喜もそこにいた。

「いやな年号だ」

慶喜が、そうこぼした。

若き日の徳川慶喜の肖像

「どんな年号でございますか」

春嶽が問うと、老中の一人が、関白からの書付を見せてくれた。奉書を二つ折りにしたその紙には、二つの候補が書かれていた。

——令徳れいとく元治げんじ


御所が推す「令徳」、幕臣が嫌う「令徳」

令徳の文字には、印がついていた。御所の意向は、こちらだという。

だが、老中・大目付・目付たちは、この文字を快く思っていなかった。彼らが寄り集まって交わした話は、こうである。

「令徳とは、徳川に令する(命じる)の意味であろう。御所は、政権を持っているつもりなのか」

不満と警戒の混じった、悪口話であった。徳川に命じる——その一語に、朝廷が幕府の上に立とうとする意図を、幕臣たちは嗅ぎ取っていたのである。慶喜の「いやな年号だ」という一言も、この空気を映していた。

だが、幕臣たちが本当に恐れていたのは、「令徳」という文字そのものではない。この一件が突きつけてくる、逃げ場のない二択であった。

朝廷が「令徳」を推し、幕府にそれを呑むかどうか委ねてきている——これは、朝廷と幕府の力関係が、事実上逆転していることを意味した。もし幕府がこれを拒めば、「幕府は朝廷の御意向にすら逆らうのか」と、尊皇攘夷を掲げる志士たちが騒ぎ立てるだろう。かといって、黙って承諾すれば、「幕府が朝廷に屈服した」という事実を、天下に見せつけることになる。

断っても地獄、呑んでも地獄。幕閣が答えに窮していたのは、まさにこの板挟みゆえであった。


春嶽、政権の在りかを説く

ところが、この場に居合わせた春嶽は、誰も予想しない方向へ話を進める。

笑いながら、こう言い放ったのである。

此天下の政権といふは、徳川氏に非ず御所にあり。徳川は所謂幕府にして、覇府なり。天子、政事を徳川に委托せらるゝ也。令徳川はあたり前なり。王代に復するは日本の光暉也

この天下の政権というものは、徳川氏にあらず、御所にある。徳川はいわゆる幕府であり、覇府はふにすぎぬ。天子が、まつりごとを徳川に委託されているだけのこと。ならば、徳川に令する(令徳)とは、当たり前のことではないか。王代に復するのは、日本の光輝である。

幕臣たちが恐れていた「令徳」の含み——朝廷が徳川の上に立つという意味——を、春嶽はその場で正面から肯定してしまったのだ。

老中たちは、いやな顔をして黙り込み、苦い笑いを浮かべるほかなかった。


決め手は、政治ではなく「文字のルール」だった

だが、春嶽の真骨頂は、ここからである。

一同が凍りついたそのあとで、彼はこう続けた。

予改めて私の考ふる所は、令徳の二字は甚不宜と奉存候

「あらためて、私自身の考えを申し上げれば、令徳の二字は、はなはだよろしくないと存じます」

理由は、先の政治論とはまるで違う。年号には、古来使われてきた「年号字」という決まった文字の系譜がある。文久は文化・文政の「文」、久寿の「久」というように、みな過去の年号に使われた字を選んで組まれる。それが古来の定規(決まり)であった。

「元治」の「元」「治」は、その年号字のうちにある。だが「令」の字は、年号字の中に見当たらない。

文久は文化・文政の「文」、久寿の「久」——過去の年号を、即座に二つも例に挙げてみせる。生半可な知識では、こうはいかない。春嶽の頭には、歴代の年号とその由来が、体系立てて入っていたのだろう。

——だから、元治の方が穏当である。

政権論では場を凍らせておきながら、着地点は文字の作法。幕臣の誰も反論できない、静かな一手であった。

この切り替えこそが、春嶽の真骨頂であった。幕府が「令徳はまかりならぬ」と正面から拒めば、朝廷の意向を蹴ったことになり、志士たちを刺激する。だが春嶽は、政治の話を一切せず、ただ「文字の作法として、令の字は年号にそぐわない」という一点だけを示した。是非を判断するのは、あくまで朝廷である——そういう体裁を崩さなかったのである。

拒みもせず、呑みもせず、判断そのものを朝廷の手に返す。幕府は、かろうじて面目を保った。


春嶽、二条関白と中川宮を奔走する

慶喜も老中たちも、この理屈には得心した。だが、立場上、彼らの口から表立って言い出すことはできない。

「後見職や老中の立場から申し立てることはできかねます。どうか、二条殿、そして尹宮いんのみやこと中川宮へのお取り成しを、お願いできませんでしょうか」

慶喜に頼まれ、春嶽は動く。

その足で罷り出たのは、関白・二条斉敬なりゆきのもとであった。対面を願い、令徳・元治の一件、年号字に「令」の字がないことを証拠として申し上げると、関白はこう答えた。

能御心付被下忝、私も実は元治の方可宜と存候へ共、衆評令徳の方宜くとの事故、令徳に決し候事

「よくぞ気づいてくれた。私も、実は元治の方がよいと思っていたのだが、衆評が令徳を良しとするので、令徳に決まりかけていたのだ」

その足で、尹宮こと中川宮朝彦親王なかがわのみやあさひこしんのうのもとへも同様に言上する。「もっともなことだ、心配こころくばりしよう。関白へも申し入れておくべきだろう」との返答。「ただいま関白殿下へ申し上げてまいりました。であれば、明日か明後日にでも、御出でいただきたい」と告げて、春嶽はその日は退出した。

両三日を経て、関白から呼び出しがある。「年号の件、いろいろと評議した結果、やはり『令』の字は年号字にないので、元治と改元することに内々確定した。ただいま徳川将軍へ相談中ゆえ、将軍からは、両案のうち元治の方がよいと御返答いただけるよう、内々に大樹公(将軍)へお伝え願いたい」

礼を述べて退出した春嶽は、中川宮のもとへも報告に上がる。ほぼ同様の話であった。

	二条城・屋根の菊の御紋

その翌日、二条城へ登城し、老中部屋へ、尹宮・関白のご意向を伝えた。一同、大いに喜び、すぐさま将軍から関白へ返答がなされたという。


元治元年二月二十日、改元

こうして、文久四年は改められ、元治元年となった。

わずか七日ほどの出来事である。だが、その中には——御所と幕府の間の緊張、幕臣たちの警戒、春嶽の大胆な政権論、そして文字のルールという着地点、二条関白と中川宮への根回し——幕末の政治力学のすべてが、凝縮されていた。


まとめ──「小児争ひの如し」、その言葉の意味

晩年、福井で『逸事史補』を書き記した春嶽は、この一件をこう総括している。

『逸事史補』「小児争ひの如し」の記述

当時の景況は、僅々きんきんたる事といえども、実に今にて考ふれば、小児争ひの如し。

たかが元号の二文字を巡って、老中も、慶喜も、関白も、中川宮も、大の大人たちが真剣に走り回った。それを、春嶽は後年、笑って「子供の喧嘩のようだった」と振り返る。

だが、笑い話で済ませてよいものだろうか。

この一件が映し出していたのは、朝廷と幕府が互角に張り合う姿ではない。むしろ、その逆である。朝廷が推す元号案を、幕府は正面から拒むことすらできず、老中たちはただ困惑し、沈黙するしかなかった。二百数十年続いた幕府の権威は、すでにこの時、朝廷の意向ひとつで揺らぐところまで傾いていたのだ。

春嶽が「文字の作法」という理屈で事をまとめたのは、機知であると同時に、苦肉の策でもあった。正面から争えば、幕府に勝ち目はない——それを、誰よりも早く見抜いていたからこそ、争わずに済む道を選んだのである。たった二文字の年号選びの奥には、幕府の権威がすでに傾き、王政復古へと坂を転がり落ちていく、その足音が、確かに聞こえていた。


画像出典

・松平春嶽:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
・徳川慶喜:Wikimedia Commons(パブリックドメイン/撮影:フレデリック・サットン)
・二条城:写真 Daderot / CC BY-SA 3.0(出典 Wikimedia Commons)
・『逸事史補』:松平慶永 著ほか『松平春嶽全集』第1巻、三秀舎、昭和14年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1263851(参照 2026-07-10)

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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