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横井小楠——松平春嶽の知恵袋を、坂本龍馬が斬りに来た日

横井小楠の肖像と「もう一人の知恵者」のタイトル。松平春嶽の知恵袋を坂本龍馬が斬りに来た日。春嶽シリーズ第5弾。
kirishima

プロローグ:教科書には載らない龍馬

坂本龍馬、といえば——
今では、誰もが知る、幕末の英雄である。

薩長同盟を結ばせ、大政奉還を導き、新しい日本を設計した男。
大河ドラマでも、小説でも、自由で型破りな主人公として描かれる。

だが、その龍馬像の多くは、後の世が作ったものだ。
明治のあいだ、龍馬はほとんど忘れられていた。
彼を国民的英雄にしたのは、戦後の小説——司馬遼太郎『竜馬がゆく』である。
あれは、すぐれた物語だが、フィクションでもある。

では、同時代の人々は、龍馬をどう見ていたのか。

ここに、一つの手がかりがある。
松平春嶽の手記『逸事史補』。
当時の最高位の一人だった春嶽が、自ら書き残した記録だ。

その中に、龍馬は出てくる。
だが——英雄としてではない。

横井小楠という、一人の知恵者に、斬りかかろうとして、屈服した青年として。

これは、教科書には載らない、龍馬の姿である。
そして——春嶽の傍らにいた、もう一人の知恵者の物語である。

横井小楠とは

横井小楠——本名・時存、通称・平四郎。松平春嶽が肥後から招いた「知恵袋」。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

横井小楠。
本名は時存(ときひろ)、通称を平四郎といった。遠く、北条氏の血を引くという。
「小楠」は号である。南朝の忠臣・楠木正行——小楠公にあやかって、自ら名のった。
肥後熊本藩の、一介の家臣だった。

だが、ただの家臣ではない。
彼は「実学」——現実に役立つ学問を説く、稀代の思想家だった。
机上の空論ではなく、国をどう富ませ、どう守り、どう開くか。
横井の頭の中には、来たるべき日本の設計図があった。

安政五年(1858年)、松平春嶽は、この男を福井へ招いた。
賓師(ひんし=特別な師)として迎え、五十人扶持の厚遇だった。

なぜ、春嶽は、見ず知らずの肥後の家臣を、ここまで厚く招いたのか。

きっかけは、九年前にさかのぼる。
越前藩士の一人が、諸国をめぐる旅の途中、熊本城下の横井の塾を訪ねた。
そこで横井の学識に触れ、その名を福井へ持ち帰った。
やがて横井自身も福井に二十日あまり滞在し、藩の学者たちと交わった。
そして横井が著して越前藩に贈った『学校問答書』を、春嶽は読んだ。

——この男だ。
海に面した越前藩は、海防と、それを担う人材を求めていた。
春嶽は、横井の説く「実学」に、来たるべき時代の答えを感じ取った。
身分や出自ではなく、その頭の中身を見る。それが春嶽の目だった。

だが、招聘は、簡単ではなかった。
春嶽は家臣を熊本へ送り、肥後藩主・細川斉護に、横井を譲ってほしいと願った。
斉護は、春嶽の正室・勇姫の父——つまり、舅であった。
ところが、その舅も、一度は断った。
「横井は才気はあるが、独自の学派を立てて藩校を批判し、政治観にも不安がある」と。
それでも春嶽は、諦めなかった。
舅を相手に、重臣たちと、何度も、何度も要請し——ついに、承諾を得た。

肥後の片隅にいた思想家を、春嶽は、こうして手に入れたのである。

横井は、期待に応えた。
福井藩の財政を立て直し、殖産興業を進め、藩政改革を導いた。
そして春嶽が政事総裁職として幕政の中枢に立ったとき——
横井は、春嶽の「知恵袋」となった。

『逸事史補』に、こんな一節がある。

諸侯の妻子を国々へ遣し帰し、継上下を廃し羽織袴の登城、大名供立の行列を止め……肥後熊本の家来横井平四郎の建言なり

——参勤交代の緩和。
大名の妻子を江戸から国元へ帰し、登城の装束を簡素にし、
大名行列をやめさせる。

二百数十年続いた幕府の根幹を、横井は変えようとした。
そして春嶽は、こう書いている。

余至極もっともの事と思ひ……執行せり

——もっともなことだと思い、私はそれを実行した。

肥後の一家臣の一案が、春嶽の手を通して、天下の制度を動かした。
これが、春嶽と横井の関係だった。

誤解された男

だが、横井小楠は、誤解されやすい男でもあった。

考えてみれば、皮肉な話である。
彼が「小楠」と号したのは、南朝の忠臣・楠木正行を慕ってのこと。
それほど、勤王の心の篤い男だった。
にもかかわらず——

開国を説けば、「外国かぶれ」と罵られる。
天皇のあり方を論じれば、「廃帝を企む不忠者」と疑われる。

忠臣を慕った男が、不忠者と疑われる。
時代の先を行きすぎた者は、いつの世も、同時代には理解されない。

攘夷の嵐が吹き荒れる幕末。
「夷狄を打ち払え」と叫ぶ志士たちにとって、
横井の説く「開国」も「公議」も、危険思想に見えた。

——春嶽公のそばに、あんな邪佞じゃねいな学者がいる。
——あれを生かしておいては、天下のためにならぬ。

そう信じた者が、刀を取った。
その一人が、まだ無名の一志士だった、坂本龍馬である。

横井との対決——斬りに来た男

坂本龍馬——後世の英雄は、このとき、刀を携えた一人の刺客だった。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

龍馬が、横井小楠を斬ろうとした理由は、はっきりしていた。

——春嶽公のそばに、廃帝を説く、邪佞な学者がいる。
——あれを生かしておいては、天下のためにならぬ。

その「邪佞な学者」こそ、横井だった。
龍馬は、春嶽の側近であるこの男を斬ることが、天下のためになると、信じていた。

(龍馬と健三郎は、同じく「邪佞」と噂された幕臣・勝海舟をも、斬ろうとしていた。
 だが勝の屋敷で議論に圧伏され、返り討ちに「実は、斬りに来た」と白状する始末。
 龍馬が勝に弟子入りした逸話は、よく知られている。
 ——その同じ刃が、次に、横井へ向かったのである)

龍馬と健三郎は、刀を携えて、横井の前に座った。
議論で負かし、屈服しなければ、斬る。
覚悟は、決まっていた。

だが——

是も平四郎の正論に服従し

——横井の正論に、二人は、服従した。

「廃帝など、思いもよらぬこと」
横井は、噂がいかに誤りであるかを、丁寧に説いた。
天皇を廃するなど、考えたこともない。
自分が説くのは、開かれた国であり、広く議論する政(まつりごと)である。

段々と、説明を受けるうちに——

両人大感服大敬服

——龍馬と健三郎は、大いに感服し、大いに敬服した。

斬りに来た男が、目の前の知恵者に、頭を垂れる。
そして二人は、横井と「断金だんきんの交わり」——金をも断つほどに固い友情を結んだ。
昨日まで刀を向けていた相手と、生涯の友となったのである。

横井小楠の言葉は、剣よりも、強かった。

そして思い出してほしい。
この横井こそ、春嶽が、舅にまで頭を下げて、肥後から招いた男なのである。
龍馬が斬ろうとし、そして頭を垂れた相手は——春嶽の「知恵袋」だった。

春嶽が見た龍馬

勝海舟——龍馬が「斬りに行って、言い負かされた」もう一人の相手。のちに龍馬はその身をひそかに護衛した。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

実は、春嶽自身も、龍馬に会っている。

余面会、天下の事情と形勢を陳述せり。勤王の志、感ずべきなり

——私(春嶽)は龍馬に面会し、天下の事情と形勢を語った。
その勤王の志は、感心すべきものだった。

脱藩浪士にすぎない龍馬に、春嶽は会い、言葉を交わした。
身分の壁を越えて、その志を「感ずべし」と評したのである。

ここでも、春嶽は、人を「身分」ではなく「中身」で見ている。
横井を肥後から招いたときと、同じ目だった。

春嶽から見れば、龍馬は「時代を動かした英雄」ではない。
「勤王の志ある、見どころのある一青年」だった。
そして、その龍馬が、自分の招いた横井に、頭を垂れた。

——後世が英雄と崇める男を、春嶽は、一人の若者として記録した。
これが、一次史料の手ざわりである。

龍馬は、横井という知恵者の縁で、人と人を繋ぎもした。
横井がかねて会いたがっていた勝海舟と、龍馬が引き合わせる。

思えば、龍馬がはじめに刀を取ったのは、
「春嶽公のそばの、邪な学者を除く」ためだった。
だが、その横井に会い、春嶽にも会い、誤解が解けたとき——
龍馬の刃は、向きを変えていた。
除こうとした知恵者たちを、今度は、守る側へ。

現に龍馬は、かつて斬ろうとした勝を、護衛するまでになる。

勝の夜行抔には、ひそかに竜馬・健三郎護衛したる事もありし

——勝が夜に出歩くときには、ひそかに龍馬と健三郎が、その身を守った。

斬りに来た男が、護衛する男になる。
その変化の起点に、横井小楠の言葉があった。

最期

横井小楠の知は、新しい時代にも、求められた。

明治の世になると、横井は、明治政府の参与となった。
維新の設計に、その知恵を貸すことになったのである。

だが——明治二年(1869年)正月。
悲劇は、突然訪れた。

その朝、横井は、直垂ひたたれを着て参内した。
天皇に拝謁し、用事を済ませ、退朝した。
ごく普通の、一日のはずだった。

ところが、にわかに、宮中へ報せが届く。

「横井平四郎、殺害される」

参内からの帰り道、横井は、刺客に襲われ、命を落としたのである。
かつて龍馬がそうしようとしたように、今度は別の攘夷派が、
「開国を説く邪佞の徒」として、横井を斬った。

時代は変わっても、誤解は、消えなかった。

報せを受けて、三条実美をはじめ、宮中の一同は、大いに驚いた。
そして、春嶽は——

わけ於余よにおいては大に心配せしところ

——とりわけ私は、大いに心配した。

自分の知恵袋であり、福井に招いた男。
その横井が、斬られた。
春嶽の動揺は、人一倍だっただろう。

やがて、犯人が判明する。
春嶽は、深い哀惜の中で、一つだけ、安堵した。

越前者に無之候故安堵せり

——犯人が、越前の者ではなかったので、安堵した。

この一行には、複雑な影がある。
春嶽は一瞬、こう恐れたのかもしれない。
——まさか、福井藩の者が、横井を斬ったのではないか、と。
横井は、福井藩の顧問だった。藩内に、横井を快く思わぬ者がいたとしても、
おかしくはなかった。

その疑いが晴れたとき、春嶽は安堵した。
だが、知恵者を失った哀しみは、消えなかった。

エピローグ:横井が春嶽に残したもの

春嶽は、二人の知恵者を持っていた。

一人は、橋本左内。
安政の大獄で、二十六歳で散った、若き俊英。
(その死は第1弾「飛雪の朝」に記しました)

もう一人が、横井小楠。
肥後から招いた、実学の人。
そして明治二年、凶刃に倒れた。

二人とも、時代の先を見ていた。
二人とも、その先見ゆえに、誤解され、命を落とした。
春嶽は、知恵者を、二度、失ったのである。

だが——横井が春嶽に残したものは、消えなかった。

開かれた国を作る。
広く議論して、政を行う。
現実に役立つ学問で、民を富ませる。

横井が説いたこれらの思想は、春嶽の中に、生き続けた。
そして明治の世で、形を変えて、実を結んでいく。

知恵者は、斃れた。
だが、知恵そのものは、斃れなかった。

斬りに来た龍馬を、友に変えた言葉。
天下の制度を動かした建言。
誤解の中で貫いた、開国と公議の理想。

それらはすべて、横井が、この世に残したものだった。

そして春嶽は、知っていた。
自分が「四賢侯」と呼ばれ、名君と讃えられるその陰に、
左内がいて、横井がいたことを。

——もう一人の知恵者。
その名を、春嶽は、生涯、忘れなかった。

教科書は、龍馬を英雄として記す。
だが、春嶽の手記は、その龍馬が頭を垂れた、もう一人の男を記している。
歴史の主役は、いつも、教科書の通りとは限らない。

旅の手帖——横井小楠の足跡をたどる

福井——横井小楠が春嶽に招かれ、藩政顧問として腕をふるった地。(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

▼ 福井市・福井城址/養浩館庭園(福井県福井市)
横井小楠が春嶽に招かれ、藩政顧問として腕をふるった地。春嶽が晩年を過ごし『逸事史補』を擱筆した養浩館とあわせて、「春嶽と知恵者たち」の物語の中心地である。

▼ 横井小楠記念館(熊本市東区)
横井の故郷・肥後熊本。彼が育ち、学んだ地に建つ記念館。「実学」を説いた思想家の原点を訪ねることができる。

▼ 寺町通界隈(京都市中京区)
明治二年正月、横井小楠が参内の帰りに斬られた地。維新の知恵者が、時代の刃に倒れた場所。

▼ 福井市・左内公園(橋本左内墓所)
もう一人の知恵者・橋本左内が眠る地。左内と横井——春嶽が持ち、そして失った、二人の知恵者を思うとき、この地に立つ意味は深い。


次回予告——春嶽シリーズ 第6弾

慶喜が、自らの手で斬った男がいた。
父・徳川斉昭が信頼した、水戸の忠臣。

武田耕雲斎——天狗党を率い、義に殉じた男。

慶喜は後年、こう漏らしたという。
「春嶽公であったなら、もっと寛大にされたであろう」と。

次回、第6弾「武田耕雲斎の血——慶喜が斬った父の臣下」
(2026年6月公開予定)

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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