明らけく——春嶽、福井で筆を擱いた日
明治十二年九月十八日。
十年かけて書き継いだ回想録の、最後の頁。そこに春嶽が記したのは、誇りでも達成感でもなかった。
「実に可恥なり、恐入るなり」——恥ずかしい、と彼は書いた。
四賢侯と讃えられ、幕府の最高職・政事総裁職を務め、維新後は民部卿・大蔵卿にまで昇った男が、である。
十年をかけて、一冊を

『逸事史補』の最後の頁には、こう記されている。
明治三年より起草す
明治十二年九月十八日功畢る
明治三年(一八七〇)に筆を起こし、明治十二年(一八七九)九月十八日に完成した。足かけ十年。春嶽、数え四十二歳から五十二歳までの歳月である。
この明治三年という年に、彼は民部卿・大蔵卿をはじめとする公職のすべてを辞している。政治の表舞台から降りた、その年から書き始めたのだ。
書くことは、彼にとって何だったのだろう。
橋本左内を救えなかったこと。攘夷の勅使を前に割腹を覚悟した夜。徳川慶喜の涙を信じ、そして裏切られたこと。天狗党を見殺しにした男の、遅すぎた一言。二度失った知恵者たち——。
そのすべてを、彼は十年かけて書き残した。誰に頼まれたわけでもない。
書き終える前に、彼が語ったこと
擱筆の直前、春嶽はひとつの歴史論を書き記している。豊臣家はなぜ滅び、徳川家はなぜ残ったのか、という問いである。
秀吉の死後、天下が徳川に帰したのは天運だった、と彼は言う。だが、それだけではない。豊臣方には石田三成があり、淀殿があった。家康を憎み、害そうとする者たちが、内側にいた。
そして春嶽は、こう続ける。
若大坂の如く、石田・小西・長束・増田如き、淀殿の如き物、徳川家旧臣の中にあるならば、御一新の際、必今の徳川家の如く、繁栄は勿論亡滅するに間違なかるべし。
——もし大坂方のように、石田三成や小西行長、長束正家や増田長盛のような者、あるいは淀殿のような存在が、徳川家の旧臣の中にいたならば。御一新のとき、徳川家は今日のような繁栄どころか、間違いなく滅亡していたであろう。
では、なぜ徳川は滅びなかったのか。春嶽は、具体的な名を挙げていく。
静寛院宮——和宮。仁孝天皇の皇女にして、孝明天皇の妹。徳川家に嫁いだ人。
天璋院——島津斉彬の養女として、将軍家定の御台所となった篤姫(→第9弾「春嶽が見た島津斉彬」)。
そして慶喜。水戸烈公の子であり、その母は有栖川宮の妹だった。
朝廷側には西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、広沢真臣。徳川側には勝海舟、大久保一翁。
決て、石田・小西等の如き者なし。故に徳川家の一旦の瓦解は、一時なり。今日の繁盛を現せり。大坂と違ふ所以なり。
——決して、石田三成や小西行長のような者はいなかった。だから徳川家の瓦解は一時のことで済み、今日の繁栄がある。大坂(豊臣)と違ったのは、そこである。
滅びなかったのは、内側に裏切り者がいなかったから。——生涯を、人を信じることと、人に裏切られることの間で過ごした春嶽らしい、結論だと思う。
「実に可恥なり」——最後の自省

そして、擱筆の言葉が来る。
春嶽はまず、自分が受けてきた恩を数え上げる。朝廷の恩恵、徳川の祖先の恩、我が家の祖先の恩、父母の恩。それらのおかげで安逸な日々を過ごせていることに、「実に感喜の至りに堪へず」——感謝の念に堪えない、と書く。
続けて、自分が得た地位を列挙する。
我は不肖にして、祖先に等き中納言に昇り、祖先も及ばぬ正二位に叙し、祖先以来無之民部・大蔵両卿、古来廃典の大学別当に被列、遂に麝香の間に被列、特殊の渥恩を受く。
——私は不肖の身でありながら、祖先と同じ中納言に昇り、祖先も及ばなかった正二位に叙せられた。祖先以来なかった民部卿・大蔵卿の両職、古来久しく絶えていた大学別当にも列せられ、ついには麝香の間祗候にまでなった。格別の厚い恩を受けている。
ここまでなら、栄達の記録である。だが、次の一文が違う。
予は何等の学問ありや、何等の智識ありや、何等の才智ある哉、何等の道徳あるや、少しも是等の貴重なる物は身に覚へなし。実に可恥なり、恐入るなり。
——私に、いったいどれほどの学問があるだろうか。どれほどの智識が、どれほどの才智が、どれほどの道徳があるだろうか。そうした貴重なものを持ち合わせている覚えは、少しもない。実に恥ずかしく、恐れ入るばかりである。
四賢侯。政事総裁職。正二位。民部卿。大蔵卿。大学別当。
その肩書きをすべて並べたあとで、彼は「私には何もない」と書いた。
謙遜の型どおりの言葉、と読むこともできるだろう。だが、この十年間、彼が何を書き続けてきたかを思えば——救えなかった俊英、信じて裏切られた将軍、守れなかった友。その記憶を一つずつ書き起こしてきた末の言葉だとすれば、これはただの謙遜ではない。
そして彼はこう結ぶ。
聊これを以、後世に示し、衆人の観に供せんとす。疎漏の罪を咎むる事なかれ。
——いささかなりとも、これをもって後世に示し、多くの人の目に供したいと思う。行き届かぬ点があっても、どうか咎めないでほしい。
明らけく——最後の一首
そして最後の頁に、署名と、一首の和歌が置かれている。

正二位 松平慶永
明らけく 治る御代の もと末を
千代万世に のこす此ふみ源 よし永
——明らかに治まるこの御代の、始まりから終わりまでを、千代万世に残す、この書。
「明らけく」——「あきらけく」。明るく、はっきりと、という意味の古語である。「治る御代」は、平らかに治まる世。だがこの言葉には、もう一つの響きが重ねられている。
「明治」。
自分が生き抜いた激動の果てに訪れた、新しい時代の名を、春嶽は歌の冒頭に忍ばせた。そして「もと末」——始まりと終わり。幕末から維新までの、あの二十年余りのすべてを、この一冊に残すのだと詠んだ。
署名は「源 よし永」。松平でも、春嶽でもない。清和源氏新田氏の流れを汲む、本姓での署名である。徳川の一門としての、最も正式な名乗りだった。
十年の仕事を終えた男が、最後に選んだ名前だった。
擱筆から、十一年
『逸事史補』を書き終えたあとの春嶽は、静かだった。
明治二十年、正室・勇姫を失う。そして明治二十三年(一八九〇)六月二日、東京・小石川関口台の自邸で、肺水腫のため死去した。享年六十三。
擱筆の日から、十一年が過ぎていた。
福井藩主として十一歳で家督を継ぎ、幕末の激流のただ中を泳ぎ、維新後は新政府の要職を務め、そしてすべてを辞して筆を執った生涯だった。
結び——一冊が遺したもの
本シリーズは、この『逸事史補』という一冊を頼りに、全十一回を歩いてきた。
第一弾「飛雪の朝」で、雪の朝に橋本左内の死を知る春嶽から始まった。勅使の前で割腹を覚悟した夜があり、慶喜の涙に騙された朝があり、天狗党の悲劇があり、横井小楠との友情があり、蹴上の坂を越えた逃亡があり、元号をめぐる小児の争いがあり、島津斉彬という朋友であり師でもあった男の思い出があり、二百年の伏線をたどる歴史論があった。
そのどれもが、教科書には載っていない。
なぜなら、これらは「歴史」ではなく、一人の人間が見て、聞いて、感じたことの記録だからである。逸事史補——「歴史の、補い」。表の記録からこぼれ落ちたものを拾い集める、という意味の書名は、その性格をよく表している。
春嶽は「私には何もない」と書いた。学問も、智識も、才智も、道徳も。
けれど彼には、一つだけあった。忘れなかったことである。
救えなかった者の名前を、裏切られた朝の空気を、友の言葉を、そして自分が何を選び、何を選べなかったかを。彼はそのすべてを覚えていて、十年かけて書き残した。「千代万世に、のこす此ふみ」と詠んだとおりに。
そして百四十年余りを経て、その文字は今も残っている。
私たちがこのシリーズで読んできたのは、歴史の教科書ではなかった。一人の人間が、忘れないために書いた、記憶の記録だったのだ。
明らけく、治る御代の、もと末を。
その「もと末」の中に、確かに彼は、生きていた。
——松平春嶽シリーズ 全十一回 完——
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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主要典拠
・松平春嶽『逸事史補』(『松平春嶽全集』第1巻 所収)「徳川興亡論」〜擱筆の和歌
画像出典
・松平慶永(若年期・晩年):国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)/出典資料『近世名士写真 其2』近世名士写真頒布会、昭和10年
・『逸事史補』擱筆頁:松平慶永 著ほか『松平春嶽全集』第1巻、三秀舎、昭和14年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1263851(参照 2026-07-28)
