幕末

天狗党の乱はなぜ悲劇に|武田耕雲斎を斬った徳川慶喜

雪降る墨色の背景に「武田耕雲斎の血——天狗党、雪の敦賀に散る」と記したアイキャッチ
kirishima

元治元年の暮れ、雪の越前路を、一隊が西へ向かっていた。武装しながら、もはや戦う力を失った、千人ほどの男たち。その先頭を、白髪の老人が歩いていた——武田耕雲斎。水戸天狗党を率いる、その人である。

彼らは、一人の男を頼って、ここまで歩いてきた。徳川慶喜。水戸の生まれ、彼らが心を寄せる主君・徳川斉昭の、実の息子である。

だが、その慶喜こそが、彼らを討つ側の総大将だった。

天狗党の乱は、なぜこれほどの悲劇に終わったのか。そして頼られた徳川慶喜は、なぜ父の代からの同志を見殺しにしたのか。松平春嶽が遺した『逸事史補』には、慶喜自身の、悲痛な告白が残されている。

1. 天狗党の乱とは——元治元年、尊王攘夷の挙兵

天狗党の乱は、元治元年(1864年)に始まる。

水戸藩——徳川御三家のひとつであり、尊王攘夷思想の本場であった。藩主・徳川斉昭のもとで育った若い志士たちは、「攘夷を、いますぐ実行せよ」と説いた。だが、幕府は動かない。横浜の港は、開かれたままである。

業を煮やした藤田小四郎ら——斉昭の腹心・藤田東湖の遺児を含む——は、筑波山に挙兵した。これが天狗党である。〔「天狗」の名は、水戸藩内で改革派を保守派が蔑んだ呼び名に由来するとされる(諸説あり)。〕

だが、挙兵は藩を二つに裂いた。尊攘激派の藤田党(天狗党)と、保守派の諸生党(市川党)。水戸藩は、血で血を洗う内紛に陥っていく。そしてこのとき藩の実権を握っていたのは、市川党のほうだった。

2. 武田耕雲斎、雪中の進退

この乱の渦中に、一人の老臣がいた。武田耕雲斎。

耕雲斎は、藤田東湖らとともに斉昭の藩政改革を支えた、水戸尊攘派の長老格である。当初、彼は若者たちの挙兵に慎重だったと伝わる。だが乱が広がるなか、耕雲斎は天狗党の首領に推される。老臣の名望が、ばらばらになりかけた一党をつなぎとめる、最後の絆となったのだ。

彼は決断する。京へ上ろう、と。

武力で幕府を倒すためではない。京にいる徳川慶喜に——水戸の主君・斉昭の息子に——自分たちの志を訴え、藩を牛耳る市川党を退けてもらうためである。慶喜ならば、分かってくれる。父・斉昭の薫陶を受けた、あの方ならば。

こうして、千人ほどの一党は、冬の中山道を西へ歩き出す。雪が、彼らの行く手を白く閉ざしていった。

3. 頼った相手は、徳川慶喜だった

だが、彼らの読みは、根本から外れていた。

京の徳川慶喜は、このとき禁裏御守衛総督——朝廷を守る要職にあった。だが、不思議なことがある。慶喜自身は横浜鎖港を唱える攘夷派であり、本来なら天狗党と志を同じくするはずの立場だった。その慶喜が、自ら朝廷に願い出て、加賀・会津・桑名など諸藩の兵およそ四千を率い、天狗党の討伐へと向かう。

なぜ、同志を討つ側に回ったのか。そこにあったのは、確固たる敵意ではない。周囲に流される、慶喜という人の性(さが)だった。天狗党が京に近づけば、御守衛総督として討たざるをえない。水戸出身の自分が彼らを庇えば、身内贔屓と疑われ、立場が危うくなる。立場と保身に押されるまま、慶喜は討伐の先頭に立ってしまった。のちに鳥羽伏見で、味方を置いて大坂城を去る、あの夜と同じである。

このとき、ひとつの藩が、身を引き裂かれていた。福井藩——松平春嶽の藩である。安政の大獄で春嶽を隠居に追い込まれた福井藩は、幕命を実直に守ろうとする一方、親交の深い水戸藩の起こした事件に、積極的には動けなかった。代わって天狗党と対峙したのが、加賀藩だった。

4. 敦賀の処刑——なぜ慶喜は見捨てたか

頼みの綱の慶喜が、討伐軍の総大将だった。包囲は迫り、行く手はふさがれる。元治元年十二月十一日、天狗党は敦賀の新保で、八百二十三名が降伏した。

投降した彼らを、加賀藩は当初、丁重に扱った。だが、幕府に引き渡されると、一転して罪人扱いとなる。彼らは、肥料のニシン粕を貯える蔵十六棟に押し込められた。そして翌年、慶応元年(1865年)二月、武田耕雲斎をはじめ三百五十三名が、敦賀・来迎寺の境内で斬罪に処された。残る約四百七十名も、遠島・追放・水戸送りとなった。武士に許されるべき切腹の名誉は、誰にも与えられなかった。

なぜ、ここまで過酷だったのか。

表向き、これは幕府の処置である。だが春嶽は『逸事史補』に、慶喜から内々に聞いた真相を書き残している——あれは実のところ、慶喜自身の判断だった、と。前水戸藩主・斉昭の子である慶喜にとって、天狗党は父に愛された「身内」であった。だからこそ、甘い顔は見せられない。身内であるがゆえに、誰よりも厳しく接しなければならなかったのだ。

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おわりに

後年、慶喜はこの一件を、どう振り返ったか。それを伝えるのは、ほかならぬ松平春嶽である。

春嶽は『逸事史補』に、慶喜の言葉をこう記している。

余を以て春嶽公とし、春嶽公ならば此の処置、寛大にして、禁錮位の事にすますべし。実に気の毒千万

——自分を、もし春嶽の立場に置いてみたなら。春嶽公であれば、この処置をもっと寛大にして、禁錮くらいで済ませただろう。実に、気の毒なことをした。

慶喜は、知っていたのだ。自らの裁きが過酷であったことを。そして、もし春嶽が同じ立場にあったなら、あの者たちを救ったであろうことを。春嶽——あの、橋本左内を、横井小楠を、人を惜しんだ男である。

動くに動けなかった春嶽は、せめて、代わりに動いてくれた加賀藩へ、翌年の正月、謝辞を送っている。彼にできたのは、それだけだった。

雪の敦賀に散った志は、報われなかった。だが、敦賀の人々は、彼らを忘れなかった。処刑の地の近くに松原神社が建てられ、浪士たちは神として祀られた。境内には、水戸から贈られた偕楽園の梅が植えられ、その縁で、敦賀と水戸は、今も姉妹都市である。

権力者が見捨てた者たちを、名もなき土地の人々と、故郷の梅が、迎えたのだ。

雪は、あの年も、敦賀の海に降り続いていた。

出典・参考

  • 松平春嶽『逸事史補』「武田伊賀守の事件」
  • 福井県観光営業部ブランド営業課「幕末福井が舞台となった水戸天狗党事件(後編)」(歴史紀行)

松平春嶽シリーズを、順にお読みいただけます。

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こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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