慶応三年「水泡」——松平春嶽が見た、徳川慶喜の敵前逃亡
※本記事は松平春嶽シリーズ 第4弾です。
前回までの物語:
プロローグ:気付かなかった
気付かなかった。
慶喜の涙を見ていた、その同じ部屋で、
諸道具が、少しずつ片付けられていた。
春嶽は、それを目にしていた。
何やら、慌ただしい。何かを、しまっている。
だが——気付かなかった。
近臣に尋ねた。
「あの片付けは、何だ」
近臣は答えた。
「上のご命令で、御道具の調べをしているだけにございます」
春嶽は、それ以上、問わなかった。
慶応三年(1867年)十二月十一日。
慶喜が「祖先の汚名は流さぬ」と涙を流し、
春嶽もまた涙を流した、あの朝のことである。
二人は泣き、誓い合った。
「変動あれば、直に報知すべし」と。
その誓いの言葉が、まだ部屋の空気に残っているうちに、
徳川慶喜は、次の一手を、もう打ち始めていた。
——そして春嶽は、それに、気付かなかった。
明治の世になって、福井で筆を取ったとき、
春嶽はこの場面に、わざわざ一行を書き加えている。
「其時は心付かざりし」
——あのときは、気付かなかった、と。
二条城、諸道具の片付け
時を、あの朝に戻す。
諫死を覚悟して二条城に駆けつけた春嶽は、慶喜と向かい合った。
慶喜は、戦をしないと誓った。涙を流した。
春嶽も、涙を流した。
(この朝の詳細は第3弾「諫死の朝」に記しました)
そして、別れ際。
慶喜は春嶽に、こう言った。
春嶽公、尚又、万端宜しく頼み入る。
今後、替りたる事も候へば、直に報知すべし
——これから先、何か変化があれば、すぐにお知らせする。
春嶽は、その言葉を信じた。
信じて、城を出ようとした。
そのとき、視界の隅に、あの片付けが映ったのである。
一体の景況相考候処、何か不穏の有様にて諸道具少々づゝ片付る
——城の様子を見ると、どこか落ち着かない気配で、
道具が少しずつ片付けられている。
春嶽は、近臣に問うた。だが「御道具調べ」という答えを聞いて、
それ以上、追わなかった。
涙を交わしたばかりの相手を、疑えなかったのだろう。
「今考ふれば、大坂城へ引取るの支度なるべし。其時は心付かざりし」
——今思えば、あれは大坂城へ引き上げる支度だった。
だが、あのときは、気付かなかった。
涙の翌日、慶喜が消えた

十二月十二日。
この日は、何事もなかった。参内もなく、静かだった。
十三日の朝。
尾張大納言・徳川慶勝から、使者が来た。
「昨日の大変、御承知か」
春嶽の側用人・中根雪江が応対する。
何のことか、と尋ねると、使者は言った。
「昨夜、内府様——慶喜公が、俄かに大坂城へ入られました。
会津・桑名の両家も、随行いたしました」
春嶽は、耳を疑った。
慶喜が、いない。
二条城を、抜け出した。
会津と桑名を引き連れて、大坂へ下った。
——昨日まで、涙ながらに「戦はせぬ」と誓った男が。
——「変動あれば報知する」と約束した男が。
その夜のうちに、何も告げず、消えていた。
春嶽が、慶喜の退去を知ったのは、
慶喜本人からではなく、尾張家の使者からだった。
慶喜から春嶽への伝言は、尾州経由で、こう伝えられた。
「都の暴動を恐れ、ひとまず大坂へ下る。今後とも、宜しく頼む」
春嶽は、その朝、『逸事史補』に記すことになる一文を、胸に刻んだ。
慶永、前日、慶喜公と替りたる事あらば報知すべしの契約も、水泡に属す
——あの朝、慶喜公と交わした「変動あれば知らせる」という約束も、
水の泡と、消えた。
水泡。
このシリーズ第4弾の表題は、ここから採っている。
春嶽自身が、明治の福井で書きつけた、二文字である。
駟も、舌に及ばない
なぜ、慶喜は逃げたのか。
風説は、二つあった。
一つは、薩摩が二条城の近くに兵を出し、
徳川方を挑発して、戦端を開かせようとした。
それを避けるために、慶喜は大坂へ下った、というもの。
もう一つは、逆だった。
徳川の家臣たちが激昂し、皇居へ押し寄せ、
薩長土の兵を皆殺しにしようとしている。
その暴発を抑えるために、大坂へ下った、というもの。
どちらが真実か、春嶽にも分からなかった。
ただ、春嶽が確かに記したのは、慶喜の「罪過」である。
会桑二侯を被連候(つれられそうろう)が第一の罪過なり
——二条城を脱したこと自体は、まだいい。
だが、会津・桑名の二侯を連れて行ったことこそ、第一の過ちだ。
なぜなら、会津と桑名は、薩長への憎しみが最も深い。
その二藩を大坂に集めれば、火薬庫を一つにまとめるようなものだった。
そして春嶽は、続けてこう書く。
駟も舌に不及、無致方
駟とは、四頭立ての馬車。古代中国で、最も速い乗り物である。
『論語』顔淵篇に、こんな言葉がある。
「駟も舌に及ばず」——四頭立ての速馬を走らせても、
一度、口から出た言葉には、追いつけない。
取り返しが、つかない。
春嶽は、この故事を、そのまま引いた。
どれほど速い馬を走らせても、もう追いつけない。
慶喜が会津・桑名を連れて大坂へ下った、その一手は、
取り返しが、つかない。
——どうしようもない。
涙を交わした翌日に、春嶽は、そう書くしかなかった。
春嶽、ひとりで大坂城へ

十二月二十日頃、朝廷で評議があった。
徳川家から五百万石を返上させ、三百万石の大名とする。
そして、慶喜を議定職——新政府の要職に就ける。
この案を慶喜に説くため、尾張慶勝と春嶽の二人に、
大坂下向の命が下った。
二十八日。
約束では、尾州慶勝も一緒に登城するはずだった。
だが、慶勝は仮病を使って、来なかった。
春嶽は、ひとりで、大坂城に登った。
城の中は、もはや、味方の場所ではなかった。
此時は幕吏老中を始、余を大に疑ふの様子にして、朝廷贔負といはんまで也
——老中をはじめ、幕府の役人たちは、春嶽を疑っていた。
「朝廷の味方め」と言わんばかりだった。
会津・桑名の家臣たちが、城中を徘徊していた。
春嶽が老中の部屋に入れぬよう、仕組まれてさえいた。
それでも、春嶽は慶喜と会った。
慶喜は言った。
「拙者も、早く朝命に応じたいが、家来たちが、なかなか落ち着かぬ。
よく協議の上で、お答えする」
そして——
「京都へ上っても、よいだろうか」
春嶽は、諫めた。
「京都へお上りになるのは、至極よろしい。
しかし、兵隊を引き連れてのご上京は、なりませぬ。
万一、不都合な動きがあり、戦端を開いては、
第一に、お家の申し開きが立ちませぬ」
春嶽には、見えていた。
慶喜の周囲が、兵を率いて薩長を討とうとしていることが。
「君側の姦を除く」という大義名分で、戦を始めようとしていることが。
だから、懇々と、諫めた。
慶喜の側衆・室賀美作守にも会い、よくよく説得した。
——だが、春嶽の声は、もう届く場所が狭まっていた。
城は、戦に傾いていた。
鳥羽伏見、開戦

慶応四年(1868年)、正月。
元日、総裁職・議定・参与が、一同参内した。
一日、二日は、平穏だった。
三日。
伏見で、戦が始まった。
春嶽は、太政官の置かれた九条邸で、その報を聞いた。
大いに、驚愕した。
開戦のきっかけを、春嶽はこう見ている。
江戸で薩摩藩士が暴れ、それを口実に、
徳川方の幕吏たちが激昂した。
とりわけ、滝川播磨守という男。
瀧川播磨守等、薩人を悪む事、虎狼よりも甚し
——滝川が薩摩を憎む激しさは、人が虎や狼を恐れ憎む、それ以上だった。
その滝川が、舟で大坂城に乗り込み、慶喜に迫った。
天皇のそばの姦物を除き、薩長を討伐すべし、と。
慶喜も困却極りし内に、段々兵隊を繰出し、終に伏見に於て兵端を開く事となれり
——慶喜は、困り果てた。
だが、押し切られるように兵が繰り出され、
ついに、伏見で戦端が開かれた。
春嶽は、書いている。
是は、今にて考ふれば、気運の然らしむる所にして、人力の不及所なり
——これは今思えば、時代の流れがそうさせたのであって、
人の力の及ぶところではなかった。
慶喜は、戦を望んでいなかった。あの涙は、本物だった。
だが、彼を取り巻く濁流が、彼を押し流した。
春嶽も、止められなかった。
諫死を覚悟して馬を走らせ、慶喜と泣き合っても——
歴史は、二人の涙の外側で、転がっていった。
軍艦で、江戸へ

戦は、徳川方の不利に傾いた。
正月六日の夜。
慶喜は、密かに大坂城を抜け出した。
会津・桑名の二侯、老中たちとともに、
軍艦に乗り、江戸へ向かった。
此夜、慶喜公は密に会桑二侯老中諸吏ともに、軍艦に乗り江戸に帰る
城に残された兵たちは、潰走した。
諸物品を捨て、逃げ散った。
そして、大坂城は——炎上した。
春嶽が聞いた話では、
慶喜があらかじめ地雷火を仕掛けておき、
城を尾張・越前の家来に引き渡すと同時に、
出火するよう、手はずを整えていたという。
(真偽は、定かではない)
豊臣秀吉が築き、秀頼が自害し、
将軍家茂が病に倒れたその城は、
最後の将軍の遁走とともに、灰になった。
慶喜は、諫死の朝に「変動あれば報知する」と約束した。
だが——
大坂退去のときも、知らせなかった。
鳥羽伏見の敗戦のときも、知らせなかった。
そして最後は、密かに軍艦で、江戸へ逃げ帰った。
約束は、三度、反故にされた。
水泡——春嶽の書いた二文字は、
この一連の出来事の、すべてを言い表していた。
エピローグ:水泡と書いた老人
それから、十数年が過ぎた。
慶喜は、江戸へ戻り、上野寛永寺で謹慎し、
やがて静岡で、長い余生を送った。
写真を撮り、狩猟をし、自転車に乗り、
最後の将軍として、ひっそりと生きた。
春嶽は、明治政府の要職を歴任し、
やがて福井で、晩年を過ごした。
ある日、福井の屋敷で、春嶽は筆を取った。
『逸事史補』——歴史の、補い。
そこに彼は、慶応三年から四年にかけての、あの日々を書いた。
慶喜の涙を書き、自分の涙を書き、
そして、裏切られた約束を書いた。
春嶽は、あの一連の出来事に、三つの言葉を残している。
「契約も水泡に属す」
——約束は、水の泡と消えた。
「駟も舌に不及」
——速馬でさえ、口から出た言葉には追いつかない。取り返しがつかない。
「気運の然らしむる所にして、人力の不及所なり」
——時代の流れがそうさせた。人の力の及ぶところではなかった。
三つとも、「もう、どうにもならない」という、諦めの言葉である。
だが、不思議なことに、春嶽の筆は、慶喜を罵ってはいない。
「慶喜は嘘つきだった」とは、書いていない。
むしろ、「あの涙は本物だった」と、信じているふしがある。
ただ、時代が——慶喜を取り巻く家臣たちが、
慶喜の涙を、押し流してしまった。
そして春嶽自身も、あの朝、
目の前で進む裏切りの準備に、気付かなかった。
「其時は心付かざりし」
——あのときは、気付かなかった。
この一行は、慶喜を責める言葉ではない。
信じすぎた、自分への、静かな悔恨である。
第1弾「飛雪の朝」で、春嶽は左内の死を見送った。
第2弾「勅使の夜」で、春嶽は自らの死を覚悟した。
第3弾「諫死の朝」で、春嶽は最後の将軍の涙を見た。
そして第4弾「水泡」で——
春嶽は、その涙を信じた自分の不明を、書き残した。
生き延びた者だけが、書ける。
裏切られた者だけが、書ける。
そして、相手を罵らずに書けることこそ、
春嶽という人の、器の大きさだったのかもしれない。
旅の手帖——水泡の舞台を歩く
▼ 大坂城(大阪市中央区)
慶喜が会津・桑名を連れて逃げ込み、鳥羽伏見の敗戦ののち、軍艦で江戸へ去った城。慶喜の遁走とともに炎上し、美麗の殿閣は灰になった。現在の天守は昭和の再建だが、豊臣・徳川の二重の石垣の上に立つと、「不吉の城」と春嶽が書いた言葉が、ふと胸をよぎる。
▼ 二条城(京都市中京区)
春嶽が慶喜と泣き合い、その翌日、慶喜が密かに抜け出した城。あの朝、諸道具が片付けられていた部屋は、今も二の丸御殿として残る。「其時は心付かざりし」——春嶽が見逃した気配を、障壁画の前で想像してみてほしい。
▼ 聖護院(京都市左京区)
春嶽が鳥羽伏見の戦いのさなか、「死人の如く」二時間だけ眠った、聖護院村の屋敷跡。砲声を聞きながら、春嶽はここで官軍の勝敗を待った。
▼ 福井市・養浩館庭園
春嶽が晩年を過ごし、『逸事史補』を擱筆した地。「水泡」「駟も舌に不及」「気運の然らしむる」——三つの諦めの言葉を、彼はこの静かな庭で書いた。
次回予告——春嶽シリーズ 第5弾
裏切られ、押し流され、それでも春嶽は前を向く。
彼の傍らには、いつも、一人の男がいた。
肥後の地から春嶽が招いた、無名の思想家。
坂本龍馬や勝海舟が、その知恵に感服したという。
次回、第5弾「もう一人の知恵者——横井小楠が春嶽に残したもの」。
(2026年6月公開予定)
シリーズを最初から読む:
