調所広郷の財政再建(後編)
前編では、調所広郷が茶坊主あがりの身から財政改革の主任になり、大坂の新しい銀主を口説いて、五百万両の借金を「元金千両につき年四両・無利息」の二百五十年賦に切り替えるまでを見た。
藩の年間の返済は、約八万両の利払いから、二万両に減った。だが、年二万両でも、払い続けるには収入が要る。
後編では、調所がその収入をどうつくったかを見る。柱は二つ。奄美の砂糖と、琉球を通じた唐物貿易である。そして、その先で調所自身が口にした言葉、「六、七分の成功」の意味を考える。
この記事でわかること
- 奄美の砂糖専売で、大坂での黒糖の値段は約1.7倍になった。ただし、産糖量は増えていない。藩の黒字は、島の人々の取り分を削ってできた。
- 琉球を通じた唐物貿易の利潤は、年平均約1.6万両。「密貿易」と呼ばれた一面と、公式の販売権を守ろうとした一面がある。
- 調所が天保11年に「六、七分」と控えめに言ったのはなぜか。砂糖の値が半値になり、唐物が止められた冬の不安。
砂糖は、誰の犠牲で儲かったのか
年に二万両を払い続けるには、藩の収入が要る。調所が柱に据えたのが、砂糖だった。
奄美大島・喜界島・徳之島、いわゆる「三島」で作られる黒糖を、藩がすべて買い上げる「惣買入れ」。実は、この仕組みは調所の発明ではない。重豪の時代にも、安永六年(一七七七)から天明七年(一七八七)までの約十年間、実施されたことがある。調所は、それを、一段と徹底した形で復活させた。
天保元年(一八三〇)、三島方という専門の部局をつくり、経験者の役人を現地に送り込んだ。島では、民間の脇売りと商人の入り込みを禁じ、古い債務を停止し、私的な取引と金銭の通用も止めた。抜荷は厳重に取り締まり、島じゅうに、さとうきびの作付けを広げるよう命じた。
作付けの面積は、島ごとに決められた。大島二千四百町歩、喜界島八百町歩、徳之島千八十町歩。男女それぞれ上・中・下の三等に分けて、割り当てられた。
そして、藩は、決まった量(定式糖)だけでなく、余った分(余計糖)も、すべて買い上げる。だが、その代金は、お金ではない。島民が注文した品物——米、酒、衣類、日用品——を、藩が鹿児島や大坂で仕入れて送る、現物での支払いだった。
その交換の比率が、残っている。文政十三年(天保元年)九月の「砂糖惣御買入に付品直段之覚」である。
| 品物 | 大坂相場 | 島の代糖 |
|---|---|---|
| 米1石 | 79斤 | 333斤 |
| 酒1石 | 114.4斤 | 2,800斤 |
| 蝋燭1斤 | 2斤 | 20斤 |
| 白木綿1反 | 5.2斤 | 40斤 |
| 鰹節10貫目 | 13.6斤 | 1,000斤 |

同じ品物を手に入れるのに、島の人は、大坂の人の数倍から、数十倍の砂糖を差し出していた。本文は、「大坂相場の四分の一から、鰹節のように九十分の一」の交換だと書く。
藩にとっては、どうか。大坂での黒糖一斤の値段は、惣買入れの前(文政二年〜十二年)の平均が〇・六八三匁。惣買入れの後(天保元年〜十年)の平均は、一・一七五匁。約一・七倍になった。同じ量を売っても、十年間で、銀五万九千四十貫(約九十八万両)の増収になる。

意外なことに、島の砂糖の量は、増えていない。大島の産糖量は、惣買入れの前の年平均が約六百八十一万斤、後が約六百三十二万斤。むしろ、わずかに減っている。藩が儲かったのは、作る量が増えたからではない。売る値段が上がったからである。調所は、大坂の堺筋の問屋の評判まで聞いて、樽の作り方や材木まで改良させた。品質を上げ、売り方を一元化して、価格を引き上げたのだ。
その負担は、島の人々にのしかかった。
樽に使う木材が足りず、島民が山奥まで切りに行く苦労は、『大島私考』に記されている。昔は一、二里で木が得られ、その日のうちに帰れたのに、今は二、三里も行かねばならず、日帰りができない。島民が費やす暇は、昔の倍になった、という。
取り締まりの厳しさを伝える話も多い。黍の刈り株が高い者は、首に罪人の札をかけて村を引き回された。製糖の粗悪な者は、首枷、足枷の刑に処された。抜け荷をした本人は死罪。指先にちょっとつけてなめただけで鞭で打たれ、子どもが甘蔗を盗み食いしただけで、棒縛りにされた——と、『奄美史談』などに伝わる。ただ、これらは伝承や二次的な文献に基づくもので、どこまでが事実かは、慎重に見なければならない。
それでも、数字は動かない。
実績を見よう。天保十五年(一八四四)から嘉永元年(一八四八)までの五年間、大坂に登った三島の砂糖は、年平均約千百二十万斤。年間の売上は、金にして約十九万両、藩の利益は約十五万両。調所自身が「今後十年は、こうなる」と見積もった年十四万両の売上を、約三割六分、上回った。
砂糖の増収だけで、年賦の年額(二万両)の、約五倍に当たる。年賦は、砂糖があって、初めて「払い続けられる約束」になったのだ。
藩の黒字は、島の人々の取り分を削って、できた。この数字の裏にある重さは、忘れてはならないと思う。
琉球を通じた貿易は、密貿易だったのか
第1弾の最後に、私は、「その手段のひとつが、琉球を通じた密貿易だった」と書いた。
ここで、その言葉を、もう少し丁寧に見直したい。
唐物(からもの)とは、中国からの輸入品のことである。薬の材料、生糸、織物。薩摩藩は、琉球が清国と行っていた貿易(進貢貿易)を通じて、これらを手に入れ、長崎で売ることを、幕府に認められていた。ただし、品目も金額も、厳しく制限されていた。
調所は、この販売の権利を財政改革の一環に据えた。文政八年(一八二五)に唐物十六種の長崎での販売権を獲得(五年限り)。天保元年からは、長崎の町年寄・高島四郎兵衛や、薩藩御用商人の石本平兵衛を使って、期限の延長を工作し、天保五年には二十年の再延長の内諾まで取りつけた。運動費は、三千両を超えたという。
だが、天保六年(一八三五)三月、風向きが変わる。老中が、薩摩藩の密貿易に関する「風聞書」を、勘定奉行や長崎奉行に下達したのだ。そして天保八年六月、老中水野忠邦は、二年後の天保十年を期して、薩摩の唐物販売を止めると、藩に通告した。
幕府が挙げた理由は、こうである。鹿児島や領内の島々に唐船が寄航して抜荷が盛んである。琉球の海路の島々では異国船と交易し、朝鮮にも薩摩の船が往来しているらしい。松前の昆布や煎海鼠(いりこ)が、越後で薩摩の船に密売されている——。さらに、薩摩が扱う十六種の唐物は、長崎会所の公式の輸入品より品質がよく、そのため会所の唐物の値が下がっている、とまで言っている。
藩は、疑いを否定した。そして、天保九年に撤回を願い、天保十年にも嘆願を続け、大奥にまで工作の手を伸ばしたという。だが、天保十年三月十一日、幕府は薩摩の要求を却下する。代わりに、天保十一年から三年間、毎年五千両を「琉球国救助」の名目で薩摩藩に与えることにした。
薩摩は、それで引き下がったわけではなかった。
弘化元年(一八四四)一月、調所は、唐物方の廃止を達した。ところが、その同じ月の十二日、築地の茶屋の内に、「琉球産物方」を設置する。表向きは、唐物方を畳んだように見せかけて、琉球救助という切り札を前面に出し、唐物の復活をはかったのである。著者は、これを「巧妙なやり方」と評している。
その工作は実を結ぶ。弘化三年(一八四六)には、白糸・紗綾の販売が認められ、閏五月には十六種のうち銀千二百貫を限りに五年間の販売が許される。弘化四年八月、五種目の変更要求が撤回されて、十五種が認められ、唐物の販売権は復活した。調所は、その功により、銀五百枚の賞賜を受けている。
では、儲かったのか。
調所の死の前後の三年間(弘化四年〜嘉永二年)について、薩摩藩の史料が残っている。唐物商法の利潤は、年平均でおよそ一万六千両。砂糖の利益(約十五万両)の約一割、年賦の年額(二万両)の約八割にあたる額である。調所の死の翌年・嘉永二年には、領内で売る薬種の利潤が九千三百両余に急増し、長崎での販売利潤の約二・八倍に達していた。

一方、輸出品に目を向けると、北の海の昆布が目立つ。年に四十万〜五十万斤、銀にして二百貫〜三百貫目近く。幕府の輸出額にほぼ匹敵した可能性もある、と研究者は見る。その昆布の流れの中に、富山の売薬商人がいた。薩摩領内での行商を認められていた商人たちで、弘化年間には、「お礼昆布」一万斤の上納が義務づけられていたようだ。
そして、嘉永二年(一八四九)一月十六日。富山の商人たちの世話をしていた鹿児島の町年寄・木村与兵衛が、薩摩組の仲間に、調所の死を知らせる手紙を書いた。
当所ニモ相替リ候儀モ御座無ク候得共、御案内ノ御家老調所様御コト、江戸ニ於テ去ル十二月御逝去ニテ、先日相知ラセ(中略)コノ末イカ様ノ御吟味モ到来ツカマツリ候ワント計リ難キ儀ニ御座候
木村与兵衛書状。『富山売薬業史料集』
これまでは、何か困ったことがあっても、調所様がうまく取り計らってくださった。これから先、どんなお調べが来るか分からない——。唐物貿易の裏側で、調所に守られていた人々の不安が、そのまま残っている。
さて、これは、密貿易だったのか。
幕府は疑った。薩摩は否定した。薩摩藩の記録は、公式の販売権を得るために、ありとあらゆる手を使ったことを示している。著者は、調所が密貿易を含めて、唐物貿易を財政改革の一環に据えていたことは明らかだとする。一方で、海老原清熙は「あまり利益にならなかった」と書き、調所自身も、天保十一年の上書で唐物の収益にはふれなかった。書けなかったのか、書くほどの額ではなかったのか。史料は、どちらとも言い切らない。
一つだけ、はっきり言えることがある。「密貿易」という一言では、この話は収まらない。公式の販売権を、あの手この手で守ろうとした顔と、公式の枠を外れて動いたと疑われた顔。その両方が、確かにあった。
「六、七分の成功」と言った男
天保十一年(一八四〇)、調所は、藩主斉興に、これまでの改革を総括する上書を出した。
最初は、国じゅうの非難が自分に集中した。銀主たちも、内心では自分を仇敵のように思っていた。しかし、藩の決意が示されるにつれて、人情も落ち着き、役人たちも精勤するようになった。そして、こう言う。改革は、「六、七分」の成功であった、と。
大坂で新しい借金をせず、産物料で支出をまかなうという、収支の均衡は、達成した。それなのに「六、七分」と控えめに言ったのは、五十万両の備蓄が、まだ果たせていなかったからだろう。
調所は、不安だった。
物価は上がり、支出も増えている。天保九年から、藩の柱の砂糖の値が下がり始めた。天保九年の一斤一・五匁が、天保十一年には〇・七匁と、半値以下になった。他の国々が、さとうきびの利益を知って、四国・中国から関東まで、栽培を広げたからである。前年の天保十年には、唐物の商いも止められた。しかも、天保七年の十万両に続いて、天保九年にも西丸造営の上納金十万両が重なった。
このとき、調所は大坂に足止めされ、江戸に出ることもできなかった。
ここで、調所が上書の中で「これからの十年」の見積りに使った砂糖の値段は、一斤〇・七匁。まさにこの年の底値である。実際には、そのあとも〇・九五〜一・〇四匁と、見積りを上回る水準を保った。調所は、最悪の数字を前提に、慎重に書いたのだ。
五十万両の備蓄は、結局、約束の期限より三、四年遅れた(年号の数え方によって、三年とも四年とも言える)。弘化元年(一八四四)三月、調所は大坂で斉興に、備蓄の完了を報告している。重豪が、十年の間にやれと命じた金だった。
ところで、ネット上の解説には、この時期に藩が「二百五十万両」を蓄えた、と書くものがある。五十万両の五倍。目を引く数字である。
だが、調所自身の報告に基づく研究書が記すのは、五十万両、完了は弘化元年である。二百五十万両という数字は、私が確かめた範囲では、その研究書に見当たらない。本記事は、史料の記述に拠った。
第1弾の終わりで、私は、「重豪が遺した借金を、一人の男が片づけることになる」と書いた。
確かに、片づけた。利息のない二百五十年賦で。島の人々の取り分を削って得た砂糖の利益で。そして、疑いをかけられた唐物貿易で。
では、その金は、誰のものになったのか。
この藩には、まだ、藩主になっていない男がいる。曽祖父に連れられて大森の海辺に立ち、何も言えずに黙っていた少年。彼が三十年後に藩主の座に就くのは、嘉永四年(一八五一)二月のことだ。その三年前、嘉永元年(一八四八)十二月、調所は、江戸の芝の藩邸で世を去る。
調所の死の翌年、調所家は、姓を改めさせられ、屋敷を取り上げられる。「調所」の名が戻るのは、明治二十年(一八八七)ごろのことだ。
財政を立て直した男は、なぜ、そんな最期を迎えたのか。そして、藩主の座は、なぜ長く斉彬に回ってこなかったのか。
次回、「斉興との確執」。11月13日(金)に公開します。
主要典拠
- 芳即正『調所広郷』(人物叢書)
- 芳即正『島津重豪』(人物叢書)
- 『鹿児島県史』第2巻
