調所広郷の財政再建(前編)
元金千両につき、毎年四両。利息はなし。完済は、二百五十年後。
天保六年(一八三五)十一月、大坂の銀主たちは、薩摩藩からそんな返済の方法を告げられた。
借りた金は返す、と藩は言っている。だが千両を貸した者が受け取れるのは、一年に四両である。千両がすべて戻ってくるのは、二百五十年たってからだ。孫の孫の、そのまた孫の代でも終わらない。「返済」と呼ぶには、あまりに遠い話だった。
人はこれを、事実上の踏み倒しと呼んだ。
前回、私たちは島津重豪(しげひで)の「五百万両」を見た。重豪が藩主になったとき、すでに借金は九十万両近くあった。それが、文政の末には五百万両に達していた。重豪が遺した借金である。
その借金を、一人の男が片づけた。
名は調所広郷(ずしょ・ひろさと)、通称は笑左衛門(しょうざえもん)。藩主の家柄でも、重臣の家柄でもない。川崎主右衛門という人の次男に生まれ、のちに調所清悦の養子となった。重豪に仕えたのは、茶道方(さどうがた)。お茶と身の回りの雑用を務める、いわゆる「茶坊主」の役である。
この男は、三つの手で借金を片づけていく。前編では、調所が改革の主任になった経緯と、その最初の手——二百五十年賦——を見る。残りの二つ、砂糖と琉球を通じた貿易、そしてその代償は、後編で。
この記事でわかること
- 茶坊主あがりの調所広郷が、なぜ、どうやって財政改革の主任になったのか。大坂の新しい銀主を、どう口説いたのか。
- 薩摩藩の五百万両の中身。前回の記事に書いた数字を、著者自身が後の本でどう修正したか。
- 二百五十年賦とは何か。元金千両につき年4両を無利息で返す方法で、藩の年間の返済額は、約8万両の利払いから2万両へ(約75%減)。
なぜ、茶坊主あがりの側用人に藩の命運を預けたのか

話は、文政十年(一八二七)の末にさかのぼる。
大坂で藩の金策を担っていた高橋甚五兵衛の改革がうまくいかず、重豪は後任を探していた。目をつけたのが、側用人の調所である。推挙したのは、菊池東原(とうげん)という人物だった。もとは幕府の御家人で、俗曲に優れ、重豪に召されて御伽人(おとぎにん)になっていた男である。
重豪は調所に、財政の改革を命じた。
調所は、断った。
自分は長年お側に仕えてきたが、勝手方(財政)のことは全く不案内である。しかも、これまでの度重なる改革は、すべて失敗に終わっている。成功する自信がない——と。
ここで、有名な場面が伝わっている。
八十四歳の重豪は、普段から手元に置いていた長脇差(ながわきざし)を手にして、一間ほど離れていた調所の膝元に詰め寄った。「お前は豊後守(斉興)の側役ではないか」。そして「側役は主人と生死を共にする職だ」と迫り、斬り捨てんばかりの剣幕になったというのである。調所は「やむを得ません。お引受けします」と答えた。
ただし、この話は、改革の主任を務めた調所が、数十年後に海老原清熙(えびはら・きよひろ)に語った思い出話として伝わるものである(『顛末書』)。著者の芳即正氏も、「一言一句、厳密に解釈する必要はない」という立場だ。ここでは、「そういう場面があったと伝えられる」とだけ記しておきたい。
はっきりしているのは、その後の動きである。
文政十一年(一八二八)六月二十日、調所は、改革の主任に確定したことに関わる賞賜と見られる形で、高五十石を与えられた。生まれて初めて、石高を持つ武士になったのである。
第1弾で、私たちは重豪を、シーボルトの前で剥製の作り方を尋ねる、好奇心の塊のような老人として見た。同じ人物が、財政の危機では、長脇差を握って家臣に迫る。人は、一つの顔だけでは語れない。
新しい銀主は、なぜ金を出したのか
主任を引き受けた調所は、すぐに大坂へ出た。
最初に頼んだのは、従来からの銀主たちである。だが、返ってきたのは「手切れ」の断りだった。それならばと新しい銀主に当たるが、こちらも、過去の返済の違約を理由に、何を持ちかけても相手にされない。うまくいきそうに見えた話も、急に手違いになる。
後年、調所はこう書いている。
ソノ時分ハ実ニ寝食ヲ忘レ心痛ツカマツリタル儀ハ、今更筆舌ニモ尽シ難シ
調所広郷『御改革取扱向御届手控』
ここで頼りになったのが、出雲屋孫兵衛という大坂の町人である。孫兵衛は、平野屋彦兵衛を誘い、彦兵衛は本家の平野屋五兵衛の出馬を期待した。五兵衛の説得が、最も難航したと考えられている。
こうして、五人の新しい銀主団ができあがる。平野屋五兵衛(本銀主)、平野屋彦兵衛、炭屋彦五郎、炭屋安兵衛、近江屋半左衛門。調所の財政改革の最初の関門は、ここでようやく目鼻がついた。
だが、大坂の商人は慎重だった。「出府の上、お請けいたします」。つまり、江戸で藩の最高責任者の言葉を直接聞かなければ、正式には引き受けない、というのである。
調所は、孫兵衛と、銀主団の代表の彦兵衛を連れて、江戸へ出た。重豪へのお目見えを願うためである。
そのとき、こんな話が伝わっている(『海老原清熙紀事鈔』)。
重豪は、いったん「明日お目見えを許す」と言った。ところが、その夜中、側近の猪飼央(いかい・ひさし)が早馬で調所のもとに駆けつける。重豪が、彦兵衛らの進上物を見て、「このような粗末な品を出す者に、当家の改革ができるとは思われぬ。明日のお目見えは取りやめだ」と言っているというのだ。
調所は、翌朝早く、高輪に出向いて頼み込んだ。「お目見えがかなわなければ、大坂での苦心も水の泡です」。すると重豪は、こう聞いたという。
「金は持って来ておるか」。
調所が「当座の道をつけるだけは持参しています」と答えると、重豪は、また同じことを聞いた。
「金は持って来ておるか」。
「はい」と答えて、ようやく、お目見えが許された。
重豪は、これまでの経験にさすがに懲りて、慎重になっていたのである。八十四歳の老人は、小さな庭の亭で、彦兵衛らに会う。そして、自分の藩の窮状を、包み隠さず語った。路頭に立つどころか、路頭に寝ているようなものだ。皆でよく案じて頼む、と。
彦兵衛は、一つ願い出た。これまで藩の家老や用人が、代わる代わる御用金を命じるので、誰を相手にしてよいかわからなかった。今度は、改革が成功するまで、笑左衛門様を代えないでいただきたい、と。重豪は、笑左衛門でも意にかなわなければ代えるが、その時は銀主と相談の上で代える、と約束した。
そして重豪は、朱印書を渡した。文政十一年(一八二八)十一月二十一日のことである。内容は三つ。改革が崩れないようにすること、国産品を時節を違えず大坂に送ること、そして砂糖の「惣買入れ」を永年続けること。藩の最高責任者の朱印による保証を、銀主たちは取りつけたのである。
ここまでなら、苦労の末に信用を取り戻した話である。
ところが、調所は、このあとが抜け目ない。
産地の事情で遅れがちな国産品の運搬を、時期違いなく行うと確約した朱印書を、大坂の町人に握らせておくのは、将来の禍根になる——そう考えた調所は、後にこの朱印書を取り返した。今も残るその包紙には、調所の自筆で、こう書いてある(上村文書)。
平野や並びに出雲やへ渡し置かれ候え共、拙者才覚をもって取返し置き候こと
調所広郷自筆の包紙書き
保証を渡して信用を買い、あとで、縛りだけを外す。調所の頭の使い方が、よく見える一行である。
銀主団にも、見返りがあった。翌文政十二年(一八二九)二月一日、孫兵衛は、定式の砂糖七百万斤のうち百万斤の販売の取扱いと、一斤につき二厘(〇・〇二匁)の口銭を、毎年、永年にわたって保証されている。砂糖を握る者が、藩の財布を握る。その仕組みの原型が、ここにある。
五百万両とは、いったいいくらだったのか
ここで、前回の記事について、補足をしなければならない。
前回、私は、藩債が「文政元年(一八一八)の九十万七千両から、およそ十一年で五・五倍の五百万両になった」と書いた。『島津重豪』の記述に拠ったものである。
ところが、同じ芳即正氏が後に書いた『調所広郷』を読むと、著者自身が、この見方を修正している箇所があった。
きっかけは、文政六年(一八二三)の史料である。この年の八月、重豪は老中の水野忠成に「藩の財政が苦しいので、当分、御用金を命じないでほしい」と願い出た。そのとき添付した、三都(江戸・京都・大坂)の藩債の内訳が残っていたのだ。
| 区分 | 項目 | 金額 |
|---|---|---|
| 藩債 | 元金(三都の合計) | 164万両 |
| 藩債 | うち江戸(幕府からの拝借金4万両を含む) | 30万両 |
| 藩債 | うち京都 | 17万両 |
| 藩債 | うち大坂 | 117万両 |
| 藩債 | 年間の利息(利率8.53%) | 14万両 |
| 収入 | 金9万両+現米9,000石 | 13.0万両 |
| 支出 | 江戸続料/参勤料/京坂諸払料/利払い | 9.0/1.0/1.8/8.0万両(計19.9万両) |
| 差引不足 | 6.8万両 |

文政元年に九十万両だった藩債は、五年後の文政六年には、三都だけで百六十四万両余になっていた。
そして著者は、こう考えを改める。五百万両は、重豪の更始(徳政)で一度破棄された借金が、そのまま消えたのではなく、結局、元金が復活したものだった。その旧債(文化四年の段階で百二十六万両余)に、その後の三都の新しい借金、さらに国元の藩債、滞った利息などを積み上げた合計が、文政末の五百万両だった、というのである。
そこで、著者の計算は変わる。「文政元年を基準に十一年で五・五倍」ではなく、「文化四年(一八〇七)の百二十六万両を基準に、二十年余で約四倍」。
変わらない点もある。五百万両に膨らんだのは、重豪が藩政の後見を退いた(文政三年)後のことだ、という大筋である。五百万両という数字も、調所自身が『手控』に書き残しているので、架空の数字ではない。
つまり、前回の記事の筋は動かない。だが、「新しい借金だけで膨れ上がった」とまでは言えなかった。史料が増えると、見え方も変わる。歴史を調べる面白さと難しさは、こういうところにある。
もう一つ、この表から見えるものがある。
文政六年の収支は、収入十三万両に対して、支出は約二十万両。差し引き、毎年およそ六万八千両の赤字——と見える。だが支出の内訳をよく見ると、そのうちの八万両が、利払いだ。利払いを除けば、支出は約十一万八千両。収入の十三万両より少ない。年に約一万二千両の黒字になる。
藩は、貧しかったというより、利払いに食われていたのである。
しかも、この利払いのうち約四割(五万九千六百七十両)は、すでに、年限を決めて払いを断っている分だった。五百万両の全額に、利息を払っていたわけではない。
調所の「手」は、この計算から生まれる。
千両につき年四両——二百五十年賦という賭け
調所は、浜村孫兵衛(出雲屋孫兵衛は、のちに浜村姓を許される)と策を練った。
利払いさえなくなれば、藩は黒字になる。調所は、そう見たのだろう。ならば、利息を払うのをやめればいい。だが、ただ止めれば、大坂の信用が崩れる。そこで考えたのが、「元金だけを、少しずつ、無利息で返す」方法だった。
京都・大坂では、天保六年(一八三五)十一月に宣言した。元金千両につき、毎年四両。つまり年〇・四%。完済まで、二百五十年。借用証文は藩が預かり、銀主には、借用金高を書いた通帳を渡す。翌七年から償還を始め、江戸でも、一年遅れて天保八年から同じ方法をとった。
これで、藩の年間の償還額は、合計二万両で足りることになった。文政六年に約八万両だった利払いが、二万両になる。年に六万両、約四分の三の減少である。
藩にとっては、一気に身軽になった。
銀主たちは、そうはいかなかった。
十六万両を筆頭に、数万両を貸していた者もいた。二百年来の古い貸借もあれば、改革の前に貸した新しいものもある。事情は、それぞれ違う。それを「法を異にすることはできない」として、一律に、遠い先の年賦に定めたのである。大坂の銀主たちの怒りの声は、町奉行の耳にも届いた。
天保七年(一八三六)四月、老中水野忠邦の弟・跡部良弼(あとべ・よしすけ)が、堺町奉行から大坂東町奉行に転じる。転任して間もなく、跡部は、年賦償還の発案者とされる浜村孫兵衛が江戸から大坂に戻ったところを捕らえ、牢につないだ。のち、大坂三郷払いとして、堺へ追放する。
ところが、実際にこれを行った薩摩藩と調所は、何の処分も受けなかった。
その裏で、藩は手を打っていた。同じ天保七年の四月十六日、斉興は幕府に金十万両を上納している。名目は「祖父(重豪)以来の恩を謝して」。著者は、すでに動き始めていた幕府の手入れを封じ込める策だったと見る。そして十月三日には、その浜村に、馬廻格(まわりかく)の家格と、二十人扶持の加増を与え、合計百二十人扶持とした(追放中の孫兵衛の代わりに、同名の子が受けたらしい)。
罰を受ける者と、褒美をもらう者が、同じ天保七年に並んでいた。
浜村については、海老原も疑問を書いている。大坂じゅうを敵に回すこの計略を、はたして浜村が言い出したのか。「何にせよ、自ら任じて行ったのは、商家の生まれには奇異というべきだ」と(『履歴概略』)。
事件は、これで終わらなかった。天保十年(一八三九)の冬、江戸の金主たちの総名代・小林勘平が、大坂に出て強訴した。要求は、毎年の返済を「三年分ずつまとめて渡してほしい」。できなければ、金山を担保に、幕府から借りて渡せ、と。調所は驚き、なだめて帰した。駕籠訴でもやりかねない勢いだったという。
ここで、調所が借用証文を銀主たちの前で焼き、啖呵(たんか)を切った、という話がある。調所の孫が語ったものだ。
だが、著者は疑う。大坂の升屋小右衛門あての通帳には、明治四年(一八七一)まで、毎年返済した記録が残っているからである。通帳を取り返して消してしまったなら、そんな記録は残らない。証文を焼いたというのは、おそらく後世の伝説なのだろう。
前回、私は、重豪の借金が牙僧(がかい)の高利で膨れ上がったことを書いた。著者はそれを「一種のしっぺ返し」と呼んでいた。調所は、膨らんだ借金を、利息なし、二百五十年で返すと宣言することで、その「しっぺ返し」をやってのけたのだ。

だが、これで藩の財布が潤ったわけではない。減ったのは、出ていく金の側だけである。年二万両でも、払い続けるには、毎年の収入が要る。
調所が、その柱に据えたのが、南の島で作られる砂糖だった。
後編「砂糖と琉球」は、11月6日(金)に公開します。
主要典拠
- 芳即正『調所広郷』(人物叢書)
- 芳即正『島津重豪』(人物叢書)
- 『鹿児島県史』第2巻
