【江戸時代のオランダ貿易】出島を通じた交易はどんな条約で行われていたのか?

kirishima
はじめに
江戸時代、日本は鎖国政策のもとで外国との接触を厳しく制限していました。
そんな中、オランダは、例外的に「出島」で貿易が許されていました。その取引はどんな条約や制度に基づいて行われていたのでしょうか?
この記事では、江戸時代の日蘭貿易の仕組みと背景をわかりやすく解説します。
Contents
江戸時代の日蘭貿易は「条約」ではない
現代の私たちが考えるような**国家間の正式な条約(treaty)**は、江戸時代のオランダと日本の間には存在しませんでした。
当時のオランダは「オランダ東インド会社(VOC)」という商業組織を通じて、幕府と慣行ベースの貿易許可で取引を続けていたのです。
日蘭貿易の根拠は「朱印状」と「年行事制」
🔹 1609年の朱印状
- 徳川家康が発行
→ オランダ東インド会社に対し、日本との貿易を許可する朱印状を与えた - これがオランダとの正式な通商許可証となり、出島を拠点に交易を続ける根拠となった

→ これは1609年に徳川家康がオランダに与えた通商許可状であり、出島貿易の法的根拠とされました。
🔹 年行事制(商館長の年次訪問)
- オランダ商館長(カピタン)は毎年江戸に出向き、将軍に拝謁
→ 貿易継続の“お伺い”と、忠誠を誓う儀式
→ 実質的には「貢物外交」に近い形式

19世紀初頭の浮世絵
🔹 通商規定は幕府の一方的指示
- 交易品目・数量・価格はすべて幕府が管理
→ 例:銅・樟脳を輸出し、薬品・砂糖・ガラス製品などを輸入

なぜオランダだけが特別だったのか?
- 布教を行わなかった
→ スペイン・ポルトガルはカトリック布教が問題視されて追放(禁教令)
→ オランダはプロテスタント国家で、宗教に踏み込まなかった - 幕府の「情報源」として利用価値が高かった
→ 欧米情勢をまとめた「オランダ風説書」を毎年提出
→ ペリー来航前から、ヨーロッパ事情はオランダ経由で幕府に伝わっていた

『長崎図』,冨嶌屋,寛政8 [1796]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2539890 (参照 2025-05-17)

近代条約への転換:1855年 日蘭和親条約
幕末になると、列強との本格的な外交が必要になり、1855年(安政2年)に日蘭和親条約が正式に締結されます。
- 下田・箱館の開港
- 難破船の救助・寄港地の提供
- 本格的な国交樹立
これがオランダと日本の初の国家間条約となり、以後の「日米修好通商条約」などの流れに続きます。
まとめ
時期 | 根拠 | 内容 |
1609〜1855年 | 朱印状・年行事制・幕府指示 | 幕府の一方的許可による限定貿易(出島) |
1855年〜 | 日蘭和親条約 | 初の正式な国家間条約、開港・国交樹立 |
オランダとの交易は、近代的な条約というよりも、
**幕府が管理する“特例的な商業活動”**に過ぎませんでした。
しかし、その柔軟な姿勢こそが、幕末の開国に向けた「布石」となったのです。

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