井伊直弼

橋本左内は本当に処刑されるべきだったのか?──安政の大獄が突きつける「国家と個人」の境界

kirishima

福井藩主・松平慶永(春嶽)の側近として、将軍継嗣問題に奔走した男、橋本左内。二十六歳。

彼は刀を振るったわけではない。反乱を企てたわけでもない。ただ、一橋慶喜を将軍に、と考え、京の公家たちにその考えを伝えて回っただけだった。

その「ただ」が、彼の命を奪った。

安政の大獄——幕末最大の弾圧と呼ばれるこの事件で、左内は死罪となった。だが、その量刑が決まる過程をたどると、一つの疑問が浮かび上がる。当初、幕府の評議はもっと軽い処分で固まっていたのではないか。

安政の大獄の全体像は、まずこちらをご覧ください。▶ 安政の大獄とは|井伊直弼はなぜ断行したのか

橋本左内という人

福井藩医・橋本長綱の長男として、天保五年(一八三四)、越前国に生まれた。父は関東の名家・田代家の出だったが、望まれて橋本家の養子となった医師である。弟の綱常は、のちに陸軍軍医総監にまで登りつめている。

医家に生まれた左内もまた、少年の頃から医学の道を歩んだ。嘉永二年(一八四九)、数え十六歳で大坂に出て、蘭方医・緒方洪庵の適塾に入門する。

その一年前、わずか十五歳のとき、左内は『啓発録』という一冊の書を記していた。稚心を去り、気を振るい、志を立て、学問に励み、良き友を選ぶ——自らを律するために書いた、五つの誓いである。まだ元服も済まぬ少年が、これほど厳格な自己規律の書を著したことに、驚かされる。

適塾で医学を修めたのち、父の病、そして死を機に藩医の職を継ぐ。だが左内の道は、医術だけにとどまらなかった。安政二年(一八五五)、医職を解かれて藩主・松平春嶽の側近に登用されると、その才は一気に政治の表舞台へと押し出されていく。安政四年には藩校・明道館の要職に就き、幕政改革と一橋慶喜擁立運動の中心を担うようになった。

その才を、同時代人も認めていた。薩摩の西郷隆盛は、のちにこう語ったと伝わる。「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」。水戸の学者・藤田東湖と並べて、同世代では左内をこそ推す——西郷にそこまで言わしめる人物だった。

西郷隆盛(エドアルド・キヨッソーネ画・想像肖像)
西郷隆盛(エドアルド・キヨッソーネ画・想像肖像)

その左内が、安政六年十月七日(一八五九年十一月一日)、伝馬町の獄で斬首された。享年二十六。

これが、春嶽をして「実に愍然ともいふべく、残念とも云べく、切歯に堪へざるの話也」と歯噛みさせた男の、短い生涯である。


橋本左内の「罪」

橋本左内は、福井藩主・松平慶永の側近として、将軍継嗣問題に深く関与した。慶永が推す一橋慶喜擁立のため京都に上り、公家たちに接触してその考えを伝える——いわゆる朝廷工作に奔走したのである。

だが、確認しておきたいことがある。左内は刀を抜いたわけでも、幕府に武力で歯向かったわけでもない。彼の「罪」は、あくまで政治的な行動と、その根にある思想にあった。

安政の大獄の発端となった密勅事件については、こちらで詳しく解説している。▶ 戊午の密勅|安政の大獄の発端となった水戸への勅書


死刑は必要だったのか——幕府側の論理

幕府の立場から見れば、左内は単なる一藩士ではなかった。福井藩主の側近として政治に直接関与し、朝廷と諸藩を結びつける「ハブ」として機能していた存在である。

とりわけ、水戸藩への密勅降下という前代未聞の事態のさなかである。朝廷を利用した政治工作は、幕府にとって体制を揺るがす兆候そのものに映った。

事が起きる前に、芽を摘む。国家の危機においては、それもまた統治の一つの形かもしれない。左内の処罰は、反乱を防ぐための「予防的措置」として理解することもできる。


死刑は「過剰」だったのか——春嶽が伝え聞いた、量刑が覆った瞬間

だが、話はそう単純ではない、と当時の人々も感じていたようだ。

春嶽が晩年に記した『逸事史補』に、この処分をめぐる、忘れがたい一節がある。

飯塚喜内始、安島其外余家来橋本左内等被処死刑候事を、幕吏の者よりくわしく承候に、実に愍然ともいふべく、残念とも云べく、切歯に堪へざるの話也。飯塚喜内・安島・茅根・橋本其他有志の者捕縛、夫々穿議有之、町奉行所へも毎々被呼出、口書も相済み、奉行、勘定奉行、大目付、寺社奉行段々遂評議の所、さして格別の罪状も無之、乍去罪状なしとも難申、依之重刑は流罪、其外追放永蟄居位にて刑事伺差出候処、老中も一見いたし、此位にて可然との評議相極り、大老掃部頭へ差出候処、少々考候義も候間、一両日留置、尚以附札相下ケ可申との事。両三日経て、俄に掃部頭より附札に死刑とありて、一同心中驚愕せり。

——飯塚喜内をはじめ、安島、そして左内らが死罪に処された経緯を、幕府の役人から詳しく聞いた。実に痛ましく、残念で、歯噛みせずにいられない話である。飯塚・安島・茅根・左内ら有志の者は捕縛され、それぞれ取調べを受けた。町奉行所へ何度も呼び出され、口書(供述調書)も済み、町奉行・勘定奉行・大目付・寺社奉行が評議を重ねた結果——さして重い罪状は見当たらない、しかし罪がないとも言い切れない、という結論に達した。それゆえ、重くとも流罪、あるいは追放・永蟄居程度で刑事伺(量刑案)が提出された。老中もこれに目を通し、この程度が妥当であろうと評議は決まりかけていた。それが大老・井伊掃部頭(直弼)のもとへ回されたところ、「少し考えるところがある」として一両日留め置かれ、追って附札(覚書)で沙汰すると伝えられた。ところが二、三日を経て、突然、掃部頭から死罪との附札が下り、一同は心底驚愕した。

町奉行、勘定奉行、大目付、寺社奉行——幕府の実務を担う役人たちが合議した結論は、流罪だった。それが、数日後に死罪へと覆った、と春嶽は書いている。

ただし、ここで立ち止まっておきたい。春嶽はこの経緯を「幕吏の者よりくわしく承候」——幕府の役人から聞いた、と書いている。春嶽自身が見たわけではない。伝聞である。

そして、この「大老が一人で死罪に書き換えた」という筋書き——実は、彦根藩井伊家文書に現存する史料そのものからは、はっきりと裏付けられていない。橋本左内の名に付された「附札」(刑を重くする指示書き)の筆跡は、少なくとも直弼のものではないことが分かっている。ではもし直弼自身の指示でないなら、誰が、どのように刑を重くしたのか。その答えは、史料からはまだ確定していない。

春嶽が聞いた「痛ましい話」は、当時すでに、この処分をめぐる語り草として広まっていたのだろう。だが、語り草と史料は、必ずしも一致しない。量刑がどのように、誰の手で重くなったのか——その全体像は、別稿でくわしく検証している。▶ 安政の大獄の真相|井伊直弼は弾圧者・独裁者だったのか


結論:正しかったのか、間違っていたのか

橋本左内の処刑が正しかったかどうか、簡単に断じることはできない。幕府の立場に立てば、体制を守るための決断だった。そして、誰が量刑を重くしたのか、その一点はいまも史料の上で確定していない。

だが、一つだけ動かない事実がある。左内は、刀を抜いたわけでも、人を傷つけたわけでもない。彼が持っていたのは、思想と、それを人に伝える言葉だけだった。その言葉が、彼の命を奪った。

春嶽はこの処分の経緯を、「実に愍然ともいふべく、残念とも云べく、切歯に堪へざるの話也」——痛ましく、残念で、歯噛みせずにいられない、と書き残している。誰の指示で重くなったにせよ、同時代を生きた一人の大名の目に、それはそう映る処分だった。

左内の死は、幕府を守ったのか、それとも終わらせたのか。

あなたなら、この時代に生きていたら、左内を処刑しますか。

その答えのない問いの先に、桜田門外の変がある。▶ なぜ桜田門外の変は防げなかったのか


主要典拠

・松平春嶽『逸事史補』(『松平春嶽全集』第1巻 所収)

安政の大獄シリーズ

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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