井伊直弼

徳川家定は本当に暗愚だったのか?虚弱体質・情報遮断・継嗣問題から再評価する

徳川家定の再評価を象徴するシルエット構図。家定の前に控えめに立つ井伊直弼の影と、水色の光を背景にした歴史イラスト。
kirishima
📌 この記事でわかること
  • 家定の虚弱体質と暗愚説の背景
  • 側近の証言から見える実像
  • 情報遮断が評価を歪めた可能性
  • 家定が継嗣問題で示した主体的判断

― 資質・噂・政治の思惑から読み解く将軍像 ―

幕末の将軍・徳川家定(いえさだ)については、「暗愚であった」「判断力に欠けた」というイメージが長く語られてきました。
しかし、当時の史料や周囲の人物の証言を丁寧に読み解くと、その評価は一面だけでは語れないことがわかります。

本記事では、家定の資質問題、暗愚説が流れた背景、井伊直弼による再評価、そして継嗣問題での主体的な判断まで、時代の状況と政治の力学を踏まえながら整理していきます。


1. 徳川家定の虚弱体質と暗愚説|なぜ噂が広がったのか

● 将軍就任の時点から不安視されていた体質

家定は嘉永6年(1853年)、30歳で将軍となりました。しかし子どもを授からず、もともと体が弱かったため、後継者問題への不安が早くから指摘されていました。

● 幕府内部に広がった“世情に疎い”という見方

安政2年(1855年)、数寄屋坊主組頭(茶坊主の中間管理職)の野村秀勝は、井伊直弼に対して次のような懸念を伝えています。

霧島
霧島

御明君ではあるが、治国の方法や世情、家臣の善悪まで十分に把握されていないのではないか?

急な将軍就任のため、政治の全体像を十分に掴めていないのではないか――これが幕府内部の不安でした。

● 噂は幕府外にも流出していた

外様の雄藩である福井藩主・松平慶永の側近、橋本左内は書簡の中で、家定が「常に震えや痙攣が見られ、言葉も明瞭に発しがたい状態」(「徳川慶喜公伝」)と述べていました。

家定の体調不良は、噂として幕府の外にも届くほど重大な問題となっていたのです。

「家定が常に痙攣し言葉が不明瞭であった」という噂は、橋本左内の書簡に見えるが、左内が直接観察したものではなく、伝聞情報である点には注意が必要である。

虚弱体質と暗愚説が広まった背景を示す図解
虚弱説と暗愚説が広まった要因を整理

2. 身体の病と『暗愚』評価は別問題だった

家定の病状については、近年の研究でさまざまな指摘があります。

● 栄養経路からの鉛中毒の可能性

吉田常吉氏は、大奥の白粉(おしろい)に含まれる鉛が、乳母からの授乳により家定に慢性中毒を与え、神経麻痺の後遺症が出た可能性を示しています。

しかし吉田氏は同時に、

  • 病状の正確な把握は難しい
  • 身体の後遺症と、政治的資質・判断力の問題は切り離して考えるべき

と強調しています。

つまり、体の不調と“暗愚説”は必ずしも同じ次元の話ではない、ということです。


3. 井伊直弼側近が語る“暗愚説の誤解”

阿部正弘による情報遮断の仕組み図
将軍家定を取り巻いた情報統制の構図

家定は本当に判断力を欠いていたのでしょうか。
ここで重要なのが、井伊直弼の側近・宇津木景福の証言です。

● 宇津木「家定は職務に怠りなし」

安政5年(1858年)の書状で、宇津木はこう述べています。(安政五年五月九日、宇津木から長野義言に宛てた書状)

  • 家定は職務を怠っていない
  • 文武や儀礼の上覧も前代よりも熱心
  • 暗愚と断じるのは誤りである

世間の評価とは異なる、実情に疑問を抱いていたのです。

● 暗愚説が生まれた背景=“阿部正弘による隔離”

宇津木は、暗愚説の背景を「阿部正弘による政治的配慮」に求めました。

阿部正弘はペリー来航という非常事態の中で、

  • 家定が不用意に発言すると混乱すると判断
  • 外交問題から完全に遠ざけた
  • 徳川吉宗以来の御庭番からの報告書すら見せなかった

こうして家定は、国家的危機の実情を把握できない状態に置かれていたのです。

外から見れば、「状況が分かっていない=暗愚」と感じられても無理はありません。

しかしそれは、阿部政権の“情報遮断の結果”であり、家定自身の資質によるものではなかったのです。


4. 井伊直弼が見た家定 ― 「賢明仁憐」の人物

大老となった井伊直弼は、家定と直接対話し、その資質を確かめました。

● 対話の結果、直弼は確信する

直弼は、家定が

  • 天下の危機を深く憂えている
  • 粗雑ではなく、むしろ真摯に向き合う人物
  • 対話をすれば理解力がある

と判断し、**「賢明にて仁憐の御方」**と評価しました。

● 直弼の進言後、家定は積極的に意見を述べるように

直弼が「遠慮なく意見を述べるように」と伝えると、家定は次第に発言を増やし、幕府役人の人事まで指摘するようになります。

老中たちはその鋭さに驚き、「舌を巻き恐縮した」次第です。

ここからも、

暗愚という評価が、実像とかけ離れていた

ことが読み取れます。

徳川家定と井伊直弼の対話を描いた浮世絵風イラスト
井伊直弼が家定の資質を再評価した場面

5. 将軍継嗣問題で示した家定の“主体性”

体質への不安や暗愚説が語られる中で、家定は将軍継嗣問題において明確な意思を持っていました。

● 一橋慶喜ではなく、紀州慶福を選ぶという強い意志

安政5年(1858年)正月、老中が継嗣伺いを立てた際、家定は次のように述べました。

徳川家定
徳川家定

「この一義、兼(かね)て深く心配している」
「一橋慶喜にしては決して相成らざる義。紀州家の慶福を後継とする」

つまり、一橋派が活発に動いている中でも、家定はすでに慶福(のちの家茂)を後継とする明確な決心を持っていたということです。

この内意が、継嗣問題の決着につながっていきます。


■ まとめ:家定は“誤解された将軍”だったのか?

家定には確かに健康問題があり、資質に疑問の噂もありました。
しかし、それを理由に「暗愚」と断じるのは、史料を見れば再考が必要になります。

  • 暗愚説の多くは情報遮断による“外見上の問題”
  • 側近はむしろ「賢明で仁憐である」と評価
  • 直弼との対話でその判断力が明らかに
  • 継嗣問題では主体的な政治判断を下した

家定は、幕末の混乱の中で誤解されやすい立場に置かれていました。
しかし史料を丁寧に読むことで、彼の内面と政治的主体性は、従来のイメージよりはるかにしっかりしたものだったことが見えてきます。

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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