井伊直弼

井伊直弼と「彦根藩邸評議」──条約調印当日の意思決定と宇津木景福の進言

彦根藩邸の一室、行灯の灯りの下で井伊直弼と家臣たちが評議を行う情景。
kirishima

安政五年六月十九日、日米修好通商条約が締結されたその日、江戸・彦根藩邸でも緊迫した議論が交わされていました。
大老・井伊直弼は、家老や側役、公用人を集め、条約調印の是非について意見を求めます。
本稿では、木俣家本の『公用方秘録』に記された彦根藩邸での評議をもとに、宇津木景福の進言と、直弼の意思決定の実像をわかりやすくたどります。


📘 彦根藩邸で何が起きたのか

条約調印の報を受けた井伊直弼は、藩邸に戻ると側役の**宇津木景福(うつき かげよし)**に幕府評議の様子を報告しました。
『公用方秘録』には、そのときのやりとりが詳しく記されています。

宇津木は、こう進言しました。

宇津木
宇津木

たとえ殿おひとりが“勅許(天皇の許可)を得るまで待つべきだ”と仰せでも、もはや致しようがありません。
しかし、諸大名の意向を確かめずに決めれば、世上で批判が起こり、京都でも天皇の不興を買うことになります

この発言は、当時の政治情勢を的確に突いていました。
孝明天皇は「条約締結の前に、再度諸大名の意見を聞くように」と幕府に命じており、勅許がないまま調印するなら、諸藩の合意を取る必要があったのです。


⚖️ 大老・井伊直弼の動揺と辞意

宇津木の進言を受けた直弼は、深く反省の意を示しました。

井伊直弼
井伊直弼

その点に気づかなかったのは無念である。この上は大老職を辞するしかない。

宇津木は、冷静に「家老の三浦内膳(みうら ないぜん)にもご相談を」と促します。
直弼はこれを受け入れ、家老・側役・公用人を全員集めて藩邸で「評議(会議)」を開きました。


🏮 評議の結論:「調印を中止すべき」

評議の結果、家臣団は「神奈川へ使者を派遣し、調印を止めるべき」と申し上げました。
しかし、直弼はこう答えました。

井伊直弼
井伊直弼

老中の衆議はすでに決し、将軍への伺いも済んでいる。私の一存では止められない。

幕府としての最終決定がすでに下されていたため、大老個人の判断で覆すことはできなかったのです。


💬 宇津木の再諫言:辞職を止める

辞意を考える井伊直弼の姿
宇津木の進言を受け、直弼は一時辞職も考えた

翌日も藩の目付たちは「このままでは御家の一大事」と訴えましたが、直弼は「致し方ない」と応じません。
再び呼ばれた宇津木は、強い言葉で説得しました。

宇津木
宇津木

今ここで辞職されれば、責任は将軍家にも及び、“陰謀方”の思うつぼになります。
今回の調印は、“国家の大政を関東(幕府)に委ねる”という大義によるやむを得ぬ措置です。
諸大名の多くは非戦の立場で一致していました。その旨を朝廷に釈明してはどうでしょう。

落胆する直弼に、宇津木は「後悔を捨て、これからの処置をお考えください」と励ましました。

陰謀方:一橋派など、朝廷周辺の急進派を含む反対勢力を指す語として用いられる。


🕊️ 人事で幕府を立て直す

宇津木の提案

翌20日、宇津木は新たな提案を行いました。

宇津木
宇津木

懸案の老中(堀田正睦と松平忠固)を罷免し、代わりに間部詮勝・太田資始を登用すべきです

直弼は側近の長野義言(ながの よしとき)に意見を求めました。
長野は「将軍の命令により、継嗣発表の前に老中交代はできない」と述べます。

しかし宇津木は譲らず、こう主張しました。

宇津木
宇津木

このままでは“陰謀方”の思惑どおりになる。
将軍は責任を問われ、井伊家にも厳罰が下るおそれがある

最終的に長野も同意し、直弼は翌日将軍に進言することを決意しました。


🏯 幕府再編と迅速な行動

宇津木の発案を受け、直弼はわずか数日で幕府人事を一新します。

 日付  出来事
6月21日堀田正睦(ほった まさよし)・松平忠固(まつだいら ただかた)に登城停止を命じる
6月22日諸大名へ総登城を命じ、条約調印を正式に布告
6月23日両老中を罷免し、間部詮勝(まなべ あきかつ)・太田資始(おおた すけもと)・松平乗全(まつだいら のりやす)を新任

短期間での断行は、幕府の統制を保ち、「違勅」批判を最小限に抑えるための緊急対応でした。


🧭 評議制度と意思決定のしくみ

この一連の経緯を整理すると、直弼の意思決定には**「江戸評議」**が中心的役割を果たしていたことがわかります。

  1. 宇津木景福が問題を指摘
  2. 家老・三浦内膳への相談を提案
  3. 家老・側役・公用人が集まり「評議」→「評決」
  4. 結果を藩主兼大老の直弼に報告

形式的には幕府の「老中評議」と同じ手順でした。
ただし、条約の調印は、将軍の「伺」も済んで命じたことなので「大老の一存で中止することは出来ない」と述べています。


🧩 直弼の意思決定スタイルの変化

直弼が常に評議を開いたかは不明ですが、安政三年以降は京都案件でも長野義言・三浦内膳・椋原主馬・宇津木六之丞らを中心に相談しており、この合議制が確立していたとみられます。

大老就任後は、さらに富田権兵衛・大久保権内ら公用人(実務官僚)が加わり、藩政と幕政を結ぶ意思決定体制が強化されました。


🪶 まとめ:合議と現実主義の政治

夕暮れの彦根城シルエット
静寂の中で、幕末の決断が下された
  • 宇津木景福は、条約調印の危険を察知し、冷静に大老を導いた。
  • 直弼は一時辞職を考えたが、説得により思いとどまり、幕府再建のための人事を断行した。
  • 評議による合議的決定は、直弼が**「独裁者ではなく、制度に基づく現実主義者」**であったことを示している。

引用:『公用方秘録(木俣家本)』より

「最早衆議一決、公方様へ伺い済み相達し候事、私に差し留め候事も相成りがたし」
—— 幕府方針が決定した以上、大老の専権ではこれを止めることはできない。


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🧠 FAQ

Q1:なぜ直弼は「私の一存では止められない」としたのか?
A:老中の評議と将軍裁可が済んでおり、大老の職権では撤回できない制度上の制約があったためです。

Q2:宇津木景福はどんな人物?
A:井伊家の側役兼公用人。冷静な判断力で直弼を支え、条約問題から人事再編に至るまで多くの進言を行いました。

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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