【第6回】なぜ桜田門外の変は防げなかったのか─井伊直弼暗殺の真相と歴史の転換点

はじめに
安政7年3月3日(西暦1860年3月24日)、江戸城の桜田門外で、時の大老・井伊直弼が襲撃されるという大事件が起こりました。いわゆる「桜田門外の変」です。
この事件は、幕末の日本にとって大きな転換点となり、その後の尊王攘夷運動、公武合体政策、幕府の権威失墜へと連なっていきます。
なぜ井伊直弼は命を落としたのか?なぜこの暗殺を防ぐことができなかったのか?本稿ではその背景と真相を探っていきます。

Contents
暗殺の背景:なぜ井伊直弼は憎まれたのか
井伊直弼は、安政の大獄で多くの尊王攘夷派志士を厳しく取り締まりました。さらには、勅許を得ずに日米修好通商条約を締結した。これは朝廷を軽視する行為と受け取られ、多くの志士たちに「国賊」とみなされました。
特に水戸藩は、条約締結を違勅であるとして、藩内外で井伊への反感を募らせていきます。
加えて、井伊が彦根藩主となった際に、それまで水戸藩に対して継続的に行っていた「近江牛の塩漬け(干肉)」の供給を一方的に停止したという逸話も伝わっています。これは幕政とは直接関係ないように思われますが、藩と藩の慣習や信義を無視した措置として、水戸藩内の井伊感情をさらに悪化させたとも言われています。

襲撃当日の状況と時系列
時は1860年3月3日(旧暦)、桃の節句。朝から雪が降る寒い日でした。井伊直弼は江戸城への登城途中、彦根藩士の護衛を引き連れ、桜田門前を進んでいました。
この登城ルートは事前に予測されており、門外には水戸藩脱藩浪士と薩摩藩士ら合わせて18名が待ち構えていました。
当時は大名の行列を見物するのが一種のブームのようになっていて、大名の家紋が描かれた武鑑と呼ばれるガイドブックまで発行されていました。
大雪の早朝にも拘らず桜田門の周辺にも見物人が屯していたために、水戸浪士たちの存在が目立つことはなかったという。
季節はずれの大雪のため供侍は柄袋や鍔覆い、鞘革など刀を完全に防護して出立したため応戦できず、また駕籠の中の直弼も防寒のために厚着をしており、身動きが取れなかったとされます。
襲撃は数分で終わり、直弼は即死状態だったと伝わります。

首謀者と実行犯たち
襲撃を主導したのは、水戸藩の関鉄之介、高橋多一郎ら。彼らは藩を脱藩して江戸に潜伏し、同志を募って入念な準備を行っていました。また、薩摩藩士・有村次左衛門も加わり、他藩を巻き込む形となりました。
事件後、実行犯の多くはその場で戦死し、また自害、捕縛、処刑されています。

襲撃者たちの逃走先
◎画面左上の×印が襲撃地点。
(1) 小河原秀之丞が直弼の首を持った有村次左衛門を斬りつける。
(2) 有村次左衛門が、遠藤邸の外で自刃。
(3) 広岡子之次郎が、酒井邸の外で自刃。
(4) 山口辰之介と鯉渕要人が、織田邸の外で自刃。
(5) 佐野竹之介・斎藤監物・黒澤忠三郎・蓮田一五郎が、脇坂安宅邸に自訴。
(6) 大関和七郎・森五六郎・杉山弥一郎・森山繁之介が、細川邸に自訴。
なぜ防げなかったのか? ─制度的・心理的理由
襲撃が防げなかった最大の要因は、警備体制の甘さにありました。大老という最高職にありながら、井伊直弼の登城時の護衛は、通常の老中に近い規模だったともいわれています。
さらに、登城ルートが定型化していたため、襲撃のタイミングを計りやすかったという面もありました。「まさか江戸の真ん中で暗殺など」という慢心と、政治的敵意の高まりが交差した結果、悲劇は現実のものとなったのです。
しかも、直弼のもとには以前から不穏分子の動きがあるとの情報が届いており、当日の未明にも襲撃の可能性を示唆する直接の警告があったと伝えられています。それでも直弼は、護衛を増やすことで「失政を恐れた」との批判を招くことを懸念し、あえてそのままに捨て置いたのです。
それは、直弼一流の美学であり、彼が信じた武士道を貫いた結果でもありました。
暗殺後の衝撃と政局の変化
直弼の死により、幕府内の強硬路線は一気に退潮します。水戸藩への処分を巡って幕府は苦悩し、諸藩の結束も乱れ始めました。
ここから幕府は公武合体政策へと舵を切り、和宮降嫁などの流れを経て、最終的に明治維新の序章が開かれていくのです。
もし井伊直弼が生きていたら?
もし井伊直弼が暗殺されず、幕府内の実権を握り続けていたなら、日本の近代化はもう少し穏やかに進んでいた可能性もあります。
条約締結を既成事実としつつ、国内改革と外交安定を図る中央集権型の改革を、彼が主導できていたかもしれません。しかし、尊王攘夷の急進化や諸藩の台頭を抑えられたかは未知数です。
結び:歴史を変えた一撃の意味
桜田門外の変は、単なる一人の要人暗殺ではありませんでした。それは、日本の政治と社会を揺るがす大転換点であり、「改革か、革命か」の岐路に立たされた象徴的事件でした。
井伊直弼の大老政治には賛否が分かれますが、その死を契機として始まった幕末の混乱は、本来なら国家存亡に関わる深刻な危機であり、外国勢力に呑み込まれても不思議ではない状況でした。
しかし幸運にも、アメリカは南北戦争に突入し、イギリスとフランスはアロー号事件の処理に追われていたため、日本への本格的な介入は後回しとなりました。こうした国際情勢の偶然が、日本が自らの手で近代国家への道を模索するための、貴重な猶予をもたらしたのです。
いわば“嵐の前の静けさ”ともいえる国際情勢が、日本にとって自己変革を成し遂げるための時間的猶予となったのです。
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