【開国の第一歩】日米和親条約とは何か──ペリーと幕府の歴史的交渉

はじめに
鎖国を続けていた日本に突如現れた黒船艦隊。その中心人物、マシュー・ペリー提督によってもたらされたのが「日米和親条約」です。本記事では、この条約の内容と背景、そしてその歴史的意義をわかりやすく解説します。
日米和親条約とは?

🔹基本情報
- 正式名称:日本国米利堅国和親条約(Treaty of Peace and Amity)
- 調印日:1854年3月31日(安政元年3月3日)
- 調印場所:神奈川(現在の横浜)
- 日本側代表:林大学頭、井戸対馬守ら
- アメリカ側代表:マシュー・ペリー提督
条約締結の背景
日本は江戸幕府による鎖国政策を約200年にわたって維持してきましたが、19世紀半ばには欧米列強によるアジア進出が本格化しました。特に、中国でのアヘン戦争(1840年〜1842年)の結果を目の当たりにした日本の知識人たちの間では、もはや鎖国政策の維持は限界であるという認識が芽生え始めていました。

二世五姓田芳柳筆 福山誠之館蔵
老中首座の阿部正弘は、オランダ商館から届けられた「別段風説書」により、アメリカが日本に対して開国を要求してくる動きを早くから把握しており、ペリーの来航予定についても事前に報告を受けていました。1853年、ペリー艦隊(いわゆる黒船)が浦賀沖に姿を現し、武力を背景にアメリカ大統領の国書を提出しました。幕府は武力衝突を避けるため、久里浜で国書を受け取ることを決定しました。翌1854年、ペリーはさらに大規模な艦隊を率いて再来航し、横浜において幕府と交渉を開始しました。
幕府は当初、通商には応じず、遭難者の救助と物資の補給に限定して対応しましたが、約1か月にわたる協議を経て、1854年3月31日、全12条からなる日米和親条約が締結されました。条約では、下田・函館の開港、遭難船の救助、アメリカ船への水・食料などの物資供給が認められましたが、通商開始については盛り込まれませんでした。
条約文書は英語、和文、漢文、オランダ語の4か国語で作成されましたが、日米双方が同一の文書に署名することはなく、また、どの言語が正文(正式な文書)であるかについての取り決めもなされていませんでした。さらに、第11条の内容には和文と英文の間で解釈の違いがあり、英文では領事の駐在が「事実上の開国」と受け取れる内容であるのに対し、和文では幕府は開国したといえないと言い訳できる。限定的な意味にとどめられていました。つまりこの齟齬は、後にハリスとの交渉において大きな外交問題へと発展することになります。
条文内容
第1条 | 日本とアメリカは、将来にわたって恒久的な平和と友好関係(和親)を結ぶ。 |
第2条 | 下田(即時)と箱館(1年後)を開港し、アメリカ船に薪水・食料・石炭などを供給。価格は日本側が決め、金銀で支払う。 |
第3条 | 米船が難破した際、乗員は下田か箱館に送られ、米側に引き渡される。所有物は返還され、日本は費用を請求しない(日本船が米国で遭難した場合も同じ)。 |
第4条 | アメリカ人遭難者や市民は日本国内で自由に行動でき、監禁されない。ただし日本の法律には従う。 |
第5条 | アメリカ人の下田・箱館での滞在はオランダ人・中国人のような制限を受けず、下田では7里以内の行動が認められる。箱館は後日決定。 |
第6条 | 条約に含まれていない必要事項は、日米両国で慎重に協議して決定する。 |
第7条 | 両港でアメリカ人は金銀による購買や物々交換が可能。交換できない物は持ち帰ってよい。 |
第8条 | アメリカ人の物品購入は日本の役人が仲介して行う。 |
第9条 | アメリカに対して最恵国待遇(他国に与えた特典を同様に適用)を一方的に与える。 |
第10条 | 遭難や悪天候を除き、アメリカ船の下田・箱館以外の港への入港は禁止する。 |
第11条(和文) | 両国政府が必要と認めたときに限って、条約締結から18か月以降、必要があればアメリカは下田に領事を置くことができる(和文・英文同趣旨)。 |
第11条(英文) | 両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、条約締結から18か月以降、必要があればアメリカは下田に領事を置くことができる(和文・英文同趣旨)。 |
第12条 | 両国はこの条約を誠実に守る義務があり、締結から18か月以内に正式に批准する。 |
🔍 重要ポイント:
この条約には、後の日米修好通商条約のような「関税自主権の喪失」や「治外法権」は含まれていません。つまり、まだ不平等条約とは言えない点が注目されます。
ペリー来航後の幕府の動き
1853年のペリー来航を受けて、幕府は大船建造の禁を解き、西洋式の大型艦船建造を開始した。幕府や諸藩は艦船を建造・購入し、海軍の整備を進めた。1855年には長崎海軍伝習所を設立し、若者に航海術や砲術などを学ばせました。
オランダは軍艦スームビング(後の観光丸)を提供し、多数の教官を派遣した。
歴史的意義:なぜ重要なのか?
- 📌 鎖国の終焉:事実上、日本が他国と国交を再開した瞬間。
- 📌 他国との連鎖反応:続いてイギリス、ロシア、オランダとも和親条約を締結。
- 📌 幕府の統治権威の動揺:朝廷・諸藩の発言力が増し、やがて幕末の動乱へ。
おわりに

日米和親条約は、単なる「通商条約」ではなく、日本が近代国家として世界に一歩踏み出す起点となった出来事でした。ペリーの黒船来航に始まる交渉のドラマは、日本の歴史を大きく動かすきっかけとなったのです。