重豪の蘭癖
文政九年(一八二六)三月四日、江戸・大森の海辺。
八十二歳の老人が、十八歳の曽孫を連れて、オランダ人を待っていた。
老人の名は島津重豪(しまづ・しげひで)。薩摩藩の前々代の藩主である。人は彼を「蘭癖(らんぺき)」と呼んだ。オランダかぶれ、という意味の悪口である。
そして連れられていた少年は、二十五年後に薩摩藩主となり、日本で最初に蒸気船を走らせることになる。名を、島津斉彬という。
島津重豪はなぜ「蘭癖」と呼ばれたのか

重豪という人は、とにかく異国のものが好きだった。
中国語を自ら話し、『南山俗語考』という中国語辞典を編纂させた。オランダの文物を集め、蘭学者を招き、長崎の通詞(つうじ)たちを藩に取り込んだ。
それだけではない。藩校・造士館を建て、天文台である明時館を置き、医学院を開き、薬園をつくった。学問と技術のための施設を、次々と領内に据えていったのである。
藩主の中でも、幼少のころから斉彬をかわいがった曾祖父重豪は、はやくから中国やオランダなど異国の文物につよい関心をもち、自ら中国語を話し中国語の辞典をつくり、またオランダ文物の収集につとめ蘭癖などといわれた。
芳即正『島津斉彬』
「蘭癖」は蔑称である。だが重豪は、その悪口をまるで意に介さなかったらしい。
大森の海辺、十八歳の沈黙
文政九年の春、オランダ商館長の一行が、江戸へ向かっていた。一行には、のちに『日本』を著すドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが同行している。
重豪は、この一行を大森で待ち受けた。すでに藩主の座を降りて三十九年、八十二歳。隠居の身である。
同席したのは、次男の奥平昌高(おくだいら・まさたか)。中津藩の前藩主で、父と同じく蘭学に傾倒し、オランダ人から「フレデリック=ヘンドリック」というオランダ名まで贈られていた男である。
そしてもう一人、十八歳の曽孫がいた。
シーボルトは、この日のことを書き残している。
薩摩と中津の両侯が江戸から来て待っておられ、われわれと知り合う機会を得られたが、これまでは大名の身分やその他の事情がそれを許さなかったのである。(中略)両侯は薩摩の若君と共に、たいそうな好意でわれわれを迎えて下さった。われわれが日本流にすわっていると、その間に運び込まれた椅子に掛けるようにすすめられた。
シーボルト『江戸参府紀行』
畳に座らされた異国人のために、わざわざ椅子を運ばせる。細やかな気遣いである。
シーボルトの筆は、老人の印象をこう続ける。
薩摩侯は八四歳(実は八十二歳)の老人でおられたが、たいへんに話がお好きで、耳も目もなお完全に元気で強壮な体格をしておられるので、せいぜい六五歳ぐらいだろうと思う。対談中にはところどころでオランダの言葉を使い、侯の注目を集めたいろいろな品物の名をたずねられた。
シーボルト『江戸参府紀行』
八十二歳が六十五歳に見えた、というのである。
そして重豪は、公式の会談が終わると、シーボルトの名を呼んで向き直った。
自分は動物や天産物の大の愛好者で、四足の獣や鳥を剥製にしたり、昆虫を保存する方法を習いたいと言われたので、私は喜んで助力を申し出た。それから侯は私に最近丹毒にかかった右手を見せた。
シーボルト『江戸参府紀行』
八十二歳の元藩主が、外国人の医師に「剥製の作り方を教えてほしい」と頼んでいる。そして自分の手の傷を見せ、診てくれと言う。
この場面が、私はとても好きなのです。
権威も体面もかなぐり捨てて、ただ「知りたい」という一点で異国人に向き合っている。八十二年生きて、まだ新しいことを習おうとしている。
では、その隣にいた十八歳は、どうしていたか。
シーボルトの記録に、少年の言葉は一行も出てこない。ただ「薩摩の若君」が同席していた、とあるだけである。

シーボルトの『江戸参府紀行』には、この「薩摩の若君」については同席したことだけ記し、重豪・昌高のような発言は何も記していない。ということは当時斉彬のオランダについての知識が未熟だったことを示すものであろうが、この会見は斉彬には大きな刺激となり、斉彬のその後におよぼした影響は、はかり知れないものがあったと思われる。
芳即正『島津斉彬』
何も言えなかったのだ。
曽祖父はオランダ語で話し、大叔父はオランダ名を持っている。その場で、十八歳だけが言葉を持たなかった。
だがその沈黙は、終わりではなかった。三十年後、この少年は集成館を築き、反射炉を組み、昇平丸に日章旗を掲げることになる。
大森の海辺の沈黙は、種だったのである。
薩摩藩の五百万両は、誰の借金だったのか
さて、ここからが本題である。
島津重豪という人は、長く「薩摩藩を破滅させた男」とされてきた。異国趣味に金を使い、学校や天文台を建て、娘を将軍家に嫁がせ、藩の財政を食いつぶした。その結果が、幕末の薩摩藩を苦しめた五百万両という天文学的な借金である——と。
五百万両。現代の感覚に直すのは難しいが、藩の年収の数十倍にあたる。文化十二年(一八一五)の重豪自身の通達によれば、藩が一年に使える現金収入(産物料)は、およそ十四万両にすぎなかった。返せる額ではない。
だが、帳簿を開くと、どうにも話が合わないのである。
まず、重豪が藩主になったときの状況を見てみたい。
既に重豪襲封直前の宝暦三年には銀四万貫(金六十六万両)に及んでいた。しかもこの年十二月藩は幕府から木曾川御手伝普請を命ぜられ、それに要した経費は四十万両にのぼり(中略)同五年六月藩主重年が死去し、七月重豪が襲封するのであるが、当時の藩債は恐らく九十万両近くに及んでいたと思われる。
芳即正『島津重豪』
宝暦三年(一七五三)、重豪が藩主になる二年前の時点で、薩摩藩はすでに六十六万両の借金を抱えていた。
そこへ幕府が命じたのが、木曾川の治水工事——のちに「宝暦治水」と呼ばれる、あの難工事である。費用は四十万両。総奉行の平田靱負は責任を負って自刃し、藩士五十余名が抗議の割腹を遂げた。
この工事のとき、重豪は十歳である。藩主は父の重年。
そして宝暦五年(一七五五)、父が世を去り、十一歳の重豪が藩主となる。彼が受け継いだ借金は、すでに九十万両近くだった。
つまり重豪は、借金を作った男ではない。借金を相続した子どもだったのである。
重豪の治世で一・九倍、文政の十一年で五・五倍
では、彼の代に借金はどれだけ膨らんだのか。
『島津重豪』に載る「藩債の動き」という表が、それを教えてくれる。
| 年次 | 借銀高 | (金) |
|---|---|---|
| 元和2(1616) | 1,000貫余 | 2万両 |
| 寛永11(1634) | 8,000貫余 | 18万両 |
| 同17(1640) | 21,000貫余 | 34〜35万両 |
| 宝永7(1710) | — | 34万5千両 |
| 寛延2(1749) | 34,000貫余 | 56万両 |
| 宝暦3(1753) | 40,000貫余 | 66万両 |
| 享和元(1801) | 72,600貫余 | 117万両 |
| 文化4(1807) | 76,128貫余 | 126万両 |
重豪が受け継いだ宝暦三年の六十六万両が、文化四年(一八〇七)には百二十六万両。
約一・九倍である。
半世紀以上にわたって藩政を握り、造士館を建て、天文台を置き、娘を将軍家に嫁がせて——それで一・九倍。決して褒められた数字ではないが、「破滅させた」という言葉には遠い。
しかも、である。
文政元年(一八一八)の藩債は、九十万七千両。文化四年の百二十六万両から、二十八パーセントも減っている。
では、五百万両はいつ生まれたのか。
翌文政二年(一八一九)、大坂の銀主たちが、薩摩藩への貸付けを拒みはじめる。その翌年、文政三年(一八二〇)に、重豪は藩政の後見を退いた。七十六歳だった。
そして文政の末年までに、藩債は五百万両に達する。
文政元年の九十万七千両から、およそ十一年で、五・五倍。しかもその急増期は、重豪が後見を退いた文政三年以降にあたる。

著者の芳即正氏は、通説をはっきりと否定している。
よく五百万両の藩債が、重豪の積極政策によるといわれる。しかし実際に五百万両にふくれ上ったのは、重豪が再度の藩政後見をやめた以後のことであり、重豪が各種の施設を造ったり開化政策を行なった時期とは異なり、図書編纂も近思録くずれ後は少ない。
芳即正『島津重豪』
重豪が施設を建て、書物を編ませていた時期と、借金が爆発した時期は、ずれているのである。
では何が起きたのか。
きっかけは、文化十年(一八一三)ごろに藩が断行した徳政——早い話が、借金の踏み倒しだった。これで大坂商人の信用を完全に失う。豪商は金を貸さなくなり、藩は「牙僧(がかい)」と呼ばれる金融ブローカーに頼らざるを得なくなった。高利であり、おそらくは複利であった。
借入れが増大したのも事実であろうが、十一年間に五・五倍増して五百万両というとてつもない巨額に達したというのは、結局は牙僧らの奸計・高利によるものが大で、後年調所がこれを、二百五十年賦償還に切り換えたというのも、一種のしっぺ返しだったともいえよう。
芳即正『島津重豪』
五百万両という数字は、重豪が使った金額ではない。利息が膨れ上がった結果の数字だったのである。
(※もっとも、重豪に責任がないわけではありません。この点は後述します)
一汁一菜の殿様
意外に思われるかもしれないが、重豪は倹約もしている。
宝暦十一年(一七六一)、緊縮令を発した。明和五年(一七六八)には、向こう七年間の倹約年限を定めている。そしてこのとき、彼は自分自身の食事にも手をつけた。
重豪自身平常の食膳は従来の一汁二菜を一汁一菜に改めるのをはじめ、衣食より燈火に至るまでの二十数カ条の日用品等の詳細な省略を規定した(『藩法集』8上)。藩主自ら省略に着手し緊縮の徹底を期した。
芳即正『島津重豪』
浪費家として名を残した男が、自分の膳から一品減らしている。しかもこの倹約令は二度延長され、結局、彼が隠居した翌年まで二十年にわたって続いた。
とはいえ、彼が藩財政を傾ける種を蒔いたこと自体は、否定できない。
文政期に大坂で藩の財政を担当した新納時升(にいろ・ときます)という人物が、その転換点を具体的に書き残している。天明八年(一七八八)、京都の大火で皇居が焼けた。幕府は薩摩藩に紫宸殿造営の費用を命じる。だがこのとき、藩の金庫にはもう余裕がなかった。
やむなく豪商から借りた。新納は言う——「これ以来、貸借の道日々に増長し国用窮乏の基」となった、と。
そしてもう一つ。重豪は子女を次々と有力大名家に嫁がせ、養子に出した。婚礼の費用、その後も延々と続く贈答の負担。これは彼自身が選んだ政策であり、構造的な赤字の出発点となった。
重豪が赤字の体質をつくり、後の金融の失策が数字を爆発させた——これが、帳簿から読み取れる最も正確な姿だろうと思う。
結び——八十九年が遺したもの
天保二年(一八三一)正月、重豪は従三位に叙せられた。八十七歳である。島津家でこの位に昇ったのは、初代・家久以来二人目のことだった。
そして天保四年(一八三三)、八十九歳で世を去る。近世薩摩藩主十二人のうち、八十歳代まで生きたのは彼ただ一人である。
長すぎる生涯だった、と言えるかもしれない。彼は藩主を四十三歳で退いたあと、四十六年間も生き続けた。その間ずっと藩政に口を出し、息子の斉宣と衝突し、孫の斉興を見守り、そして曽孫の斉彬を可愛がった。
この曽孫が、彼の本当の遺産だった。
斉彬という人物の全体像は「島津斉彬とは何者か」で、春嶽の目から見た斉彬は第9弾「島津斉彬と西郷隆盛」で読めます。
大森の海辺で、何も言えずに黙っていた十八歳。オランダ語で異国人と渡り合う曽祖父を、ただ見ているしかなかった少年。
その少年が藩主となったとき、薩摩は日本で最初に洋式の造船所を持ち、反射炉を築き、ガラスを焼き、写真を撮り、電信を通すことになる。
「蘭癖」と笑われた血は、確かに受け継がれていた。
——そして、その斉彬が藩主の座に就くまでには、まだ長い道のりがある。
重豪が遺した借金を、一人の男が驚くべき手段で片づけることになるのだ。その手段のひとつが、琉球を通じた密貿易だった。
次回、「調所広郷の財政再建」。
主要典拠
- 芳即正『島津重豪』(人物叢書)
- 芳即正『島津斉彬』(人物叢書)
- シーボルト『江戸参府紀行』(『島津重豪』所引)
