【父子の確執が歴史を動かす──島津斉彬と斉興の深すぎる溝】

曾祖父・重豪、家老・調所広郷、側室・お由羅の影に迫る
はじめに:名君・斉彬はなぜ冷遇されたのか?
幕末の英傑・島津斉彬は、西郷隆盛や維新の志士たちを育て、明治日本の礎を築いた人物のひとりです。
しかしその輝きとは裏腹に、彼は父・島津斉興から長年にわたり冷遇され続けてきました。
なぜ、このような不遇の時代が生まれたのか? そこには、島津家の歴史と藩内権力の深いドラマが隠されています。
Contents
島津重豪の“蘭癖”と放漫財政の爪痕

島津斉彬の曾祖父・島津重豪(しげひで)は、18世紀後半を代表する開明派の大名です。
蘭学、天文学、洋書の蒐集、最新技術の導入に積極的でしたが、藩の財政は破綻寸前になりました。
このツケを払う羽目になったのが、曾孫の斉彬ではなく、その父・島津斉興(なりおき)でした。
財政再建に命を賭けた父・島津斉興

斉興は「質素・倹約・実利主義」の人。重豪の放漫財政を徹底的に立て直そうとし、藩士の俸禄削減や無駄の排除を断行しました。
その姿勢から見れば、斉彬の開明的思想や重豪に似た嗜好は“危険視”すべき対象だったのです。
家老・調所広郷の辣腕と密貿易の真実

藩の財政再建を実務面で支えたのが、調所広郷(ずしょひろさと)。
彼は黒糖専売や琉球を経由した密貿易で藩に莫大な富をもたらしました。
一方で保守派の象徴として斉彬の擁立に強く反対し、その死は斉彬にとって藩主となる転機となりました。
お由羅騒動──母の愛と派閥抗争
斉興の側室・お由羅は、自らの子・久光の擁立を望み、斉彬の擁立に猛烈に反対しました。
この対立が「お由羅騒動」に発展し、斉彬派の粛清が行われました。
遅れてきた名君、斉彬の即位

1851年、斉興が隠居し、ようやく斉彬が藩主となりました。
集成館事業、反射炉、電信、写真、軍事改革──彼の進取の気性は、幕末日本に大きな影響を与えました。
7. 結びに:親子の対立が薩摩を強くした?
親子の確執は、思想・政策・人脈のぶつかり合いでした。
だがそれは、結果として明治維新を担う若者たちの登場を促し、薩摩を日本有数の強藩へと変貌させたのです。
参考文献
- 『島津斉彬と幕末薩摩』原口泉(講談社現代新書)
- 『調所広郷と密貿易』鹿児島県歴史資料館
- 鹿児島市立図書館アーカイブ『お由羅騒動』