幕末

慶応三年「諫死の朝」——松平春嶽が見た徳川慶喜の落涙

束帯姿の松平春嶽。慶応三年十二月十一日、諫死を覚悟して二条城へ向かい、最後の将軍・徳川慶喜の落涙を見届けた朝の物語。春嶽シリーズ第3弾「諫死の朝」アイキャッチ。
kirishima

プロローグ:再び帰らじ

「最早、再び帰らじ」

家来にそう言い残して、春嶽は早馬に飛び乗った。

慶応三年(1867年)十二月十一日の朝。
京都・聖護院村の屋敷。
空は、まだ暗かった。

このとき春嶽、四十歳。
四年前、攘夷の勅使を前に割腹を覚悟した、あの夜から——
彼は二度目の「死の朝」を迎えようとしていた。

馬の腹を蹴る。
向かう先は、二条城。
徳川慶喜のいる城である。

なぜ、春嶽は「もう帰らない」と告げたのか。
なぜ、彼はまた、死を懐に入れて馬を走らせたのか。

二条城、戦の支度

二条城・二の丸御殿。大政奉還が表明された城であり、春嶽が早馬で駆けつけた場所。(撮影:Wiiii/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0)

時を、数日さかのぼる。

慶応三年十月、徳川慶喜は大政奉還を上表した。
二百六十年続いた徳川の世を、朝廷に返す——
歴史の教科書では、それは「平和的な権力移譲」として語られる。

だが、現場は、そんなに静かではなかった。

春嶽が二条城に出入りして見たのは、戦の支度だった。

城中の塩梅あんばいは、矢張やはり慶喜公始、薩長土藩の士は戦端を専ら開く事を主張せらるゝ様

——城の中では、戦が始まろうとしていた。

老中たちは、藤堂や譜代大名、紀州の兵隊の数を書き出していた。
弾薬の調べが行われていた。
慶喜の手元でも、鉄砲と弾薬が数えられていた。

徳川家には、十八大隊の兵があった。
慶喜は調練を好み、家茂の代から鍛え上げた精鋭だった。
藤堂も、井伊も、兵を持っていた。

一辺軍をなされたらば必勝利なるべし

——ひと当てすれば、必ず勝てる。
慶喜は、そう考えている様子だった。

そして、薩長土の兵を、軽蔑していた。
「あんな兵に、徳川が負けるはずがない」と。

「朝敵に御成り被成(なされ)候思召おぼしめしに候哉」

徳川慶喜——最後の将軍。慶応三年(1867年)大坂にて、撮影された一葉。春嶽が「朝敵になる覚悟がおありか」と問うた、その同じ年の姿。(撮影:F. Sutton/1867年/Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

春嶽は、危ういと感じた。

今、徳川が兵を挙げれば、どうなるか。
朝廷に対して恐れ多いのは言うまでもない。
それだけではない。

三百年来の家も消滅し

——徳川の家そのものが、消える。

春嶽は、慶喜に直接、問うた。

もし、朝敵に御成り被成候思召に候哉
——あなたは、朝敵になる覚悟がおありなのですか。

慶喜は答えた。
「決て兵端を開く存じは無之候」
——戦を始めるつもりはない、と。

だが、春嶽の眼は、ごまかせなかった。
「どふも、聊疑はれざる所あり」
——どうも、信じきれないところがある。

兵を数え、弾薬を調べ、薩長を見下す男が、
「戦うつもりはない」と言う。
その言葉を、春嶽は信じられなかった。

このとき、春嶽は腹を決めた。

若、いよいよ、軍を起し給ふならば、余、慶喜公の前で腹を切り可申
——もし本当に戦を始めるなら、私は慶喜公の目の前で腹を切る。

四年前の「勅使の夜」では、勅使の前で腹を切る覚悟だった。
今度は、慶喜の前で腹を切る覚悟だった。

春嶽の死に場所は、いつも、誰かを止めるための場所だった。

十二月十一日、急使

そして、十二月十一日の朝が来た。

二条城から、急使が来た。
老中からの書翰だった。

只今、至急御用有之候間、参上可致(いたすべし)

——至急、用がある。すぐに城へ来られたい。

短い文面だった。
だが、春嶽は、その短さに、最悪を読んだ。

「余は大に驚き、昨日も段々慶喜公へ討論候へども、決て採用無之」
——昨日も慶喜公と議論したが、聞き入れられなかった。

ならば、この急使の意味は一つ。
「兵端を開かんとするの事なるべし」
——戦が、始まろうとしている。

春嶽は、覚悟した。

日光と越前を拝む

日光東照宮・陽明門。神君・徳川家康の眠る地。春嶽が家を出る前、その方角を拝んだ。(撮影:Nerotaso/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0)

慶永、今日は諫死して徳川数代の恩に報じ、朝廷への御奉公、死するは今日を限りとす
——私は今日、諫死する。
徳川数代の恩に報い、朝廷へ奉公し、
命は、今日を限りとする。

諫死。
主君を諫めるために、自らの命を絶つこと。

春嶽は、徳川の親戚であり、四賢侯のひとりであり、
かつての政事総裁職だった。
その彼が、慶喜を止めるために、死を選ぼうとしていた。

家を出る前、春嶽は二つの方角を拝んだ。

「窃に日光・越前の方へ向ひ暇乞をなし」
——人知れず、日光と越前の方角に向かって、暇乞いをした。

日光。
東照宮。神君・徳川家康の眠る場所。
——徳川という大きな家への、別れ。

越前。
福井。
春嶽は、御三卿・田安徳川家に生まれ、
数え十一歳のとき、越前福井藩に養子として入った。
縁で結ばれた土地である。
そして、自分を育て、自分が尽くした越前への、感謝と別れ。
二つの方角に、
春嶽は手を合わせてから、家来に告げた。

最早、再び帰らじ

そして、早馬に乗った。
空は、まだ明けきっていなかった。

慶喜、落涙す

二条城に着くと、まず老中に会った。
「子細は、慶喜公より直々にお聞きください」と言われた。

春嶽は、慶喜の前に出た。

束帯姿のまま、だった。
朝廷と二条城を行き来する日々、
装束を改める時間さえ、惜しかった。

腹を切る覚悟だった。
懐には、死がある。
何を言われても、一心は動かない——
「一死を極めて居る故、聊も一心変動することなし」

ところが、慶喜の口から出たのは、戦の宣言ではなかった。

慶喜は、言った。

家来共、しきりに兵端を開き候様申聞候へ共——
於余(よにおいて)は、対朝廷、奉恐入、かつは祖先の汚名を千歳に流す事は、決て不致(いたさず)候間、御安慮可被下(くださるべし)

——家来たちは、しきりに戦を始めよと言ってくる。だが——
私は、朝廷に対して恐れ多く思っている。
そして、祖先の汚名を、長久の世まで流すようなことは、決してしない。
だから、安心してほしい。

そして——

殆、落涙也
——慶喜は、ほとんど、涙を流していた。

春嶽は、その涙を見た。

兵を数え、弾薬を調べ、薩長を見下していた、あの慶喜が。
最後の将軍が。
「祖先の汚名を流さぬ」と言って、泣いていた。

余も亦、落涙せり
——私も、また、涙を流した。

腹を切る覚悟で来た男と、
戦を止めると言って泣く男。

慶応三年十二月十一日、夜明け前の二条城で、
二人の男が、向かい合って泣いた。

これが、『逸事史補』に記された、たった八文字——
「殆落涙也、余も亦落涙せり」の、すべてである。

涙は、いくさを止められなかった

だが、歴史は、この涙のとおりには進まなかった。

慶喜は「戦はしない」と泣いた。
しかし、そのわずか数日後、慶喜は会津・桑名を引き連れて、二条城を脱し、大坂城へ下った。

そして、年が明けた慶応四年正月。
鳥羽伏見で、ついに戦端が開かれた。

慶喜の涙は、嘘ではなかっただろう。
あの朝、彼は本当に、戦を避けたかったに違いない。

だが、彼を取り巻く家臣たちの圧力、滝川播磨守のような強硬派の突き上げ、
そして時代そのものの濁流が、
慶喜の涙を、押し流した。

春嶽は、止められなかった。

諫死の覚悟で馬を走らせ、慶喜と泣き合っても——
歴史は、二人の涙の外側で、別の方向へ転がっていった。

気運の然らしむる所にして、人力の不及所なり

——時代の流れがそうさせたのであって、人の力の及ぶところではなかった。

春嶽は、後年、そう書いた。
諦めの言葉のようでいて、それは、
あの朝、確かに二人が泣いたという事実を、
なお抱きしめている言葉でもあった。

エピローグ:泣いた男たちの後日

福井・養浩館庭園。春嶽が晩年を過ごし、『逸事史補』を擱筆した地。(撮影:Japanexperterna.se/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0)

慶喜は、その後、江戸へ戻り、上野寛永寺で謹慎し、
やがて静岡で長い余生を送った。
明治の世を、最後の将軍として、ひっそりと生きた。

春嶽は、明治政府の議定・参与となり、
民部卿、大蔵卿を歴任し、
やがて福井で晩年を過ごした。

そして、十数年後。
明治を迎えた春嶽は、福井で筆を取った。

『逸事史補』——歴史の補い。

そこに、彼は、あの朝のことを書いた。

殆落涙也、余も亦落涙せり
——たった八文字。

歴史の教科書には、慶喜の涙は書かれない。
鳥羽伏見の戦いは書かれても、
その数日前、二条城の夜明けに、
二人の男が向かい合って泣いたことは、どこにも書かれない。

それを知っていたのは、
腹を切る覚悟で馬を走らせ、
慶喜の涙を、間近で見た、春嶽ただ一人だった。

第1弾「飛雪の朝」で、春嶽は左内の死を見送った。
第2弾「勅使の夜」で、春嶽は自らの死を覚悟し、屈辱を呑んだ。
そして第3弾「諫死の朝」で——
春嶽は、最後の将軍が泣くのを見た。

強い男が泣く瞬間を、もう一人の覚悟を決めた男が、見ていた。

そして、それを書き残せたのは、
あの朝、死なずに、生き延びたからだった。

——生き延びた者だけが、泣いた男たちのことを、書ける。

旅の手帖——諫死の朝の舞台を歩く

▼ 二条城(京都市中京区)
あの朝、春嶽が早馬で駆けつけた城。大政奉還が表明された大広間(二の丸御殿)は、現在も世界遺産として残る。慶喜が涙を流した本丸の建物は焼失したが、二の丸の障壁画の前に立つと、「祖先の汚名を流さぬ」と泣いた男の声が、どこからか聞こえてくる気がする。

▼ 聖護院(京都市左京区)
春嶽が「最早、再び帰らじ」と家を出た、聖護院村。現在の聖護院門跡周辺。夜明け前、ここから二条城まで、春嶽は死を懐に入れて馬を走らせた。

▼ 福井市・養浩館庭園
春嶽が晩年を過ごし、『逸事史補』を擱筆した福井。あの朝の涙を、十数年後、彼はこの地で書いた。

▼ 日光東照宮(栃木県日光市)
春嶽が家を出る前、その方角を拝んだ、徳川家康の眠る地。春嶽は徳川の人間として、ここに別れを告げてから、慶喜のもとへ向かった。

▼ 浮月楼(静岡市葵区)
あの朝、二条城で泣いた最後の将軍が、その後を過ごした地。徳川慶喜は明治を迎えると静岡に移り、約二十年にわたってこの屋敷で余生を送った。鳥羽伏見も江戸開城も遠い昔となった頃、慶喜はここで写真・狩猟・自転車に没頭し、政治の表舞台から完全に身を退いた。庭園は現在も料亭として残り、見学も可能。公式サイト


次回予告——春嶽シリーズ 第4弾

慶喜の涙は、本物だった。
だが、その数日後、慶喜は会津・桑名を連れて、大坂城へ消えた。

春嶽との「変動あれば報せる」という約束は、水の泡に帰した。

鳥羽伏見、そして江戸開城——
春嶽が見た、最後の将軍の「その後」。

次回、第4弾「水泡——慶喜と春嶽、最後の落涙」
(2026年6月公開予定)

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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