井伊直弼の人材登用【後編】長野義言と宇津木景福──彦根藩を支えた“思想と実務”の側近たち
井伊直弼の「人材登用」を史料ベースで深く知りたい方に向けて整理しました。
前編では、井伊直弼が藩主に就任してから「御書付」八か条、飢饉下での領民救済、行政改革、そして藩校弘道館の再建など、藩政の土台を固める施策を整理しました。
家中引き締め・領民救済・教育重視という三本柱は、のちの大老政治にもつながる「基礎工事」でもありました。
後編となる本稿では、その基盤のうえに行われた「人材登用」に着目します。
国学・朝廷工作のブレーンとして直弼を支えた長野義言(ながのよしとき)と、相州警備やペリー来航対応で評価を高めた宇津木景福(うつきかげよし)。対照的な二人の側近の歩みを追いながら、直弼の「人を見る目」と能力主義の実像を探ります。
▶ 前編はこちら:
井伊直弼の藩政改革と人材登用【前編】藩主就任・財政再建・弘道館改革の基礎固め
1井伊直弼による長野義言の登用とブレーン形成
直弼の人材登用の中で、もっとも重要な存在が長野義言です。庶子時代から直弼は長野の学問に注目しており、早くから彼を藩政構想の中核に位置づけていました。ただしその登用は、きわめて慎重に進められました。
直弼が長野義言を見極める過程──背景と慎重な判断

嘉永元年(1848)頃、直弼は家中に長野の私塾「桃廼舎(もものや)」への入門を勧めており、すでに「将来の中枢メンバー」として意識していたと考えられます。
しかし直弼は、すぐに要職へ据えるのではなく、書状で意見を求めたり、私的な問題(村山たか)を相談したりしながら、人物・判断力・家臣団の反応を慎重に見極めました。
嘉永5年2月、側役・三浦十左衛門へ送った書状では、家老庵原・新野の高評価も踏まえつつ両人は長野の門人でもあるので「身びいきと見られないか」を気にかけており、世論面まで配慮していることが分かります。
そして嘉永5年4月26日、「国学をよく嗜む」ことを理由に二十人扶持・諸士格(正規の武士)で正式に召し抱えられました(「侍中由緒帳」74号)。能力だけでなく、「家中の受け止め方」を重視した人事判断でした。
国学・朝廷工作の中枢へ──長野が担った役割
長野は登用後すぐに側近というより、志賀谷在住や諸国巡見を経て徐々に役割を広げていきます。嘉永6年の異国船来航では、幕府への返書草案を命じられ、以後、江戸詰となり直弼の相談役を務めました。
直弼が幕府へ提出した「初度存寄書」にみられる奏聞・神慮伺いといった国学的発想には、長野の影響が色濃いと指摘されています。
やがて長野は、国学方・系譜編纂・天皇への書物献上、伊勢・春日社への代参など朝廷関係の特命を次々と任され、「朝廷工作のキーマン」となっていきました。
長野門人の拡大と藩政への思想的影響

仕官前の長野門人は下級藩士や藩医が中心でしたが、嘉永6年の江戸詰以降は御殿奥向の役人や平士層へ急速に広がりました。
嘉永7年正月には、側役・小納戸役・小姓など近習役人31名が一斉に入門しています(「授業門人姓名録」)。
藩主の衣服や調度品の管理・出し入れをする役人
最終的に門人は約90名に達し、のちに藩政中枢へ進む人物が多数含まれていたため、長野の思想的影響が藩政全体に浸透していきました。
2 井伊直弼による宇津木景福の登用と再評価

長野とは対照的な経歴を歩んだのが宇津木景福です。直弼は当初、宇津木を「要注意人物」として警戒して遠ざけていましたが、相州警備やペリー来航への対応が高く評価され、側近へと再登用していきます。
宇津木の経歴と直亮時代の近侍
文化6年(1809)生まれの宇津木は、若くして家督を継ぎました。文政10年、直亮の京都上使に随行して評価され、以後は江戸詰の近侍として経験を積み、留守居・用人役・相州預所奉行などを歴任しました。
江戸幕府の直轄領のうち、管理を大名や旗本などに委託した土地を指します。
職務内容から、宇津木は直亮時代から典型的な「実務官僚型」の藩士であったことがうかがえます。
直弼が宇津木を警戒した理由──「要注意人物」評価
直弼は世嗣時代、宇津木を木俣派の人物とみなし、厳しい評価を下していました。嘉永元年の書状では、宇津木と宮崎惣右衛門について「相変わらず権勢をふるっている」と記し、信頼を置いていなかったことがうかがえます。
また嘉永3年、直亮が病に倒れた際の対応や、江戸湾内持場替えの内願問題でも、直弼は宇津木に対して「不忠不義」と厳しく批判しました。
このため宇津木は相州預所奉行として江戸から距離を置く配置となりました。
地位のある人などに内密に願うこと。
相州警備で評価が一転──直弼の再登用判断

しかし宇津木は相州三崎陣屋での海防任務で実績を積み、嘉永6年(1853)のペリー来航時には相州詰家老・三浦内膳を補佐し、迅速な対応で功績を挙げました。
これにより刀一腰を拝領し、評価が一転します。 嘉永7年には側役となり江戸へ復帰。安政5年に直弼が大老となると、公用人役として幕府折衝の最前線を担うようになります。
江戸時代、大名・小名の家で、幕府に関する用務を取り扱った役
長野が思想面の参謀なら、宇津木は「現場と幕府をつなぐ実務の要」でした。
3 井伊直弼の人材観──能力主義と実務重視

長野義言と宇津木景福という対照的な二人を比較すると、直弼の人材観がよりはっきりと浮かび上がります。
思想ブレーンと実務官僚──直弼の“二本柱”人材戦略
直弼は、学問・思想・朝廷工作の長野と、実務・危機対応の宇津木という異なる強みを持った人材を適材適所に配置し、バランスのよい「チーム直弼」を築きました。
この「思想 × 実務」の両輪が、のちの大老政治を支えたことは言うまでもありません。
家柄より役に立つか──直弼人事の基準
藩政改革の初期から直弼は、「御書付」八か条や教育改革などを通じて家中の実務基盤を整えてきました。その延長線上にあるのが、家柄でなく能力を見るという人材観でした。
4 まとめ──藩政改革から大老政治へ

後編では、井伊直弼が藩主として行った人材登用の核心を見てきました。思想面の長野義言、実務面の宇津木景福。その登用に込められた「能力主義」と「実務重視」の姿勢は、のちの大老政治にも通じています。
地方藩主としての経験と、「人材を正しく選び活かす目」。それらがやがて開国や安政の大獄など、幕末日本の針路をめぐる大きな決断へとつながっていったことが、本稿から読み取れるでしょう。
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