井伊直弼

井伊直弼の政治力|条約調印と将軍継嗣を決断した「嵐の中の船長」

江戸城で巻物と政務文書を読み込む井伊直弼(浮世絵風)
kirishima

■激動の幕末と井伊直弼の登場

井伊直弼の政治は「国内秩序の改善 → 外交交渉」の順で進められた。強権は目的ではなく、手段だった。

ー危機の時代に「強い決断」で国を動かした大老

幕末の日本は、黒船来航をきっかけに**外国の圧力(対外危機)と、
将軍を誰にするかをめぐる
国内の対立(国内政争)**が同時に進んでいました。

そんな中、井伊直弼は安政5年(1858年)に大老という最高責任者に就任し、
日本の政権をまとめるために強いリーダーシップを発揮しました。

彼の政治は、今で言えば

霧島
霧島

混乱した組織を、トップダウンで一気に立て直す

というイメージです。

大老とはどんな役職だったのか?

「大老(たいろう)」という役職名が定着したのは、貞享(じょうきょう)・元禄年間(17世紀後半)ごろのことです。
それ以前の時代、幕府の公文書では「御家老」や「御執権」と呼ばれていました。

幕末のころになると、大老の位置づけには二つの見方がありました。
ひとつは、**将軍を補佐する「執事職」**としての役割。
もうひとつは、国政全体を見渡す「元老」的な重臣としての役割です。

いずれにしても、大老は老中(ろうじゅう)より上の地位に置かれ、
幕府の中では**「別格の政治責任者」**として特別な存在でした。

元老としての大老の仕事には決まった職務規定がなく、
その行動範囲や影響力は、人によって大きく異なりました。
つまり、大老がどれほど幕政に関わるかは、
その人物の器量や判断力に左右されたのです。


■ 対外危機への決断:開国と「独断」の条約調印

ペリーの横浜上陸(ハイネ原画 石販図 横浜開港資料館蔵)
ペリーの横浜上陸(ハイネ原画 石販図 横浜開港資料館蔵)

日米修好通商条約は「独断」と批判される一方、国際法の視点では実質的な国益確保策と評価されることも増えている。

ハリスの要求と迫る列強の圧力

アメリカ総領事ハリスが強く開国を求める中、
直弼は「朝廷の影響力を排除して幕府が主導権を持つべきだ」と考えました。

なぜ朝廷の許可を待たなかったのか

  • アメリカの圧力は強まり、
    英仏の艦隊が来る可能性すらある状況
  • 大名たちに相談するも強硬に反対する勢力(一橋派)に邪魔されて
    衆議が一致しない
  • 何よりも、国の安全と英仏の主張に翻弄されないための主導権を守る必要がある

そこで幕府は、朝廷や大名の同意を待たずに
**日米修好通商条約を調印**します。

発生日内容原因
安政四年十月二十一日将軍家定がハリスに謁見通商条約交渉の正式開始
安政五年正月五日条約調印を60日延長勅許待ちのため
安政五年三月十四日孝明天皇の勅答→留保先に諸大名の合意を取ること
安政五年三月中旬約3か月再延長(→6月末)天皇の拒否
安政五年四月二十三日井伊直弼が大老就任将軍の指名
安政五年六月十九日条約調印結果的に勅許なし

幕府主導を守るための決断

これは

井伊直弼
井伊直弼

外国(特に英仏)に振り回されないために、先に米国と条約を結んだほうがよい

という判断でした。

条約調印をめぐる井上清直・岩瀬忠震の動き

ハリスと会見の後、下田奉行の**井上清直(いのうえ きよなお)と、目付の岩瀬忠震(いわせ ただなり)**が交渉の報告を行ったところ、
幕府の多くの関係者はそろって「すぐにでも条約を調印すべきだ」と意見を述べました。

しかし、井伊直弼と若年寄の**本田忠徳(ほんだ ただのり)**の二人だけは、
「天皇の勅許(ちょっきょ=正式な許可)が必要である」と主張しました。

その後、老中たちと審議を重ねた結果、直弼は井上・岩瀬の両名に対し、
勅許が下りるまでは、できる限り調印を延期するように」と命じました。


井上と岩瀬の対応の違い

このとき井上は、

霧島
霧島

もし交渉が行き詰まった場合は、調印してもよいでしょうか

と直弼に伺いを立てました。

直弼はこれに対して、

井伊直弼
井伊直弼

やむを得ない場合は仕方がないが、できる限り延期するように

と答えています。

一方、岩瀬は出発の際にこう述べました。

岩瀬
岩瀬

初めからそのような考え(いざとなれば調印してもよい)では、交渉は慎重さを欠く。必ず延期するつもりで臨む

この発言だけを見ると、岩瀬は調印に反対しているように見えます。
しかし実際には、これは本心ではありませんでした。


岩瀬の真意

岩瀬忠震は、心の中では**「たとえ勅許がなくても条約を結ぶべきだ」**と考えていました。
彼はこの状況を、条約調印の「絶好の機会」と見ていたのです。

したがって、彼が「延期する覚悟で交渉する」と言ったのは、
井伊直弼から“最悪の場合は調印してもよい”という言質(確認)を確実に得るための演技でした。

その証拠に、岩瀬は現地に着くと、
交渉を引き延ばすことなく即日で条約に調印しています。
このことからも、岩瀬には当初から「延期する意思」はほとんどなく、
調印の許可を確実にした上で、速やかに行動するつもりだったことがわかります。


■ 国内政争の制圧:将軍継嗣問題の決着

幕末の勢力構図:徳川幕府(井伊直弼)・朝廷・一橋派の関係を示した教育図
幕末は「幕府 vs 朝廷 vs 一橋派」が対立する構造。

次の将軍を
徳川家茂(慶福)に決めたのも直弼です。

なぜ家茂(慶福)を選んだのか

  • 家定の意志と伝統的な血筋を尊重
  • 一橋慶喜を推す勢力(松平慶永ら)の介入を排除
  • 「将軍を決めるのは幕府」という原則を守る

一橋派との対立と幕府権威の維持

この決断に反対する勢力が動きましたが、
直弼は迷わず家茂擁立を進めました


■ 安政の大獄:秩序回復のための強硬策

安政の大獄の対象者図
安政の大獄で処罰された人々Hitopedia[ヒトペディア]

条約問題や将軍継嗣をめぐり、
朝廷や一部大名(水戸藩など)の反発が高まります。

戊午の密勅と尊攘派の動き

特に水戸藩が動いた「戊午の密勅」問題は
直弼にとって

井伊直弼
井伊直弼

幕府の権威を揺らす危険な動き

でした。

そこで直弼は安政の大獄を断行します。

  • 吉田松陰ら尊攘派を処罰
  • 大名や幕臣を含む200名以上を取り調べ

200名以上の処断が意味したもの

評価は分かれるものの、
目的は国内の混乱を止め、政治を安定させることにありました。


■ 茶道が支えた静かな精神力

茶道を通して精神を整える井伊直弼
茶の湯の精神が直弼の覚悟を支えた

直弼は政治の荒波の中でも、茶道で静かな心を保ち、迷いを断ち切る精神を養った。

厳しい政治の一方で、直弼は茶の湯を深く愛しました

  • 『茶湯一会集』をまとめる
  • 大老就任後も茶会を継続

『茶湯一会集』と精神修養

茶道は直弼にとって

霧島
霧島

心を整え、迷いを断ち切る修養

でした。

激務の中の「静」と「剛」

激務の中でも落ち着いた決断ができたのは、
この「静かな時間」が支えていたのです。


■ まとめ:嵐の時代に舵を切った指導者

井伊直弼の政治は、激しい時代の中で

  • 将軍の権威を守る
  • 幕府の主導権を確保する
  • 外圧に対抗するために国内の統一を図る

という一貫した戦略のもとで進められました。

例えるなら

霧島
霧島

嵐の中で進路を決める船長のように、
批判を受けながらも、船(日本)を前へ進めた

人物でした。

そして、その大胆さを支えたのは
茶の湯で養われた静かで揺るがない精神でした。

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無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
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