島津斉彬とは何者か?明治維新の原動力となった開明藩主の先見と遺産
はじめに
島津斉彬(1809–1858)は、幕末期の薩摩藩を率いた藩主であり、日本の近代化に先駆的な役割を果たした人物として評価されている。本稿では、斉彬の生涯と政策を、同時代状況を踏まえつつ整理し、その歴史的位置づけを検討する。

島津斉彬の肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
1. 幼少期と出自
斉彬は、薩摩藩11代藩主で島津斉興の長男として文化6年3月14日(1809年4月28日)生まれた。幼少より学問に秀で、とくに蘭学・兵学・機械技術への関心が早くから見られたとされる。
一方、父・斉興は、斉彬の思想的傾向が曾祖父・島津重豪に通じる点を警戒し、結果として家督相続を回避する姿勢を取った。
2. お由羅騒動と家督争い
斉興の側室・お由羅が、自身の子である久光を後継に擁立しようとしたことで、薩摩藩は深刻な派閥抗争に陥った。これがいわゆる「お由羅騒動」である。
この争いにより斉彬派の藩士は処罰・排除され、藩政は長期にわたり停滞した。最終的に幕府の裁定を経て、嘉永4年(1851年)に斉彬が藩主に就任する。

島津久光の肖像
『近世名士写真』其2,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3514947 (参照 2025-05-17)
3. 藩主としての近代化政策──集成館事業
藩主就任後、斉彬は藩政改革と技術導入を推進した。その中核が集成館事業である。
- 反射炉建設と大砲鋳造
- 日本で最初にガス灯の常設点灯を実現
- 紡績・機械工場の設置
- 西洋式造船技術の導入
- 技術者・藩士の教育機関整備
これらは当時の日本において極めて先進的であった。一方で、財政負担が重く、すべてが短期間で成果を生んだわけではない点にも注意が必要である。
※下図:薩摩藩内に残る旧集成館機械工場(現・尚古集成館)

4. 幕政への関与と人材登用
斉彬は将軍継嗣問題において一橋派を支持し、徳川慶喜を中心とする幕政改革を志向した。
その政治姿勢は、幕府を否定するものではなく、体制の枠内で近代化を進める「改革志向型」であったと評価できる。
また、西郷隆盛をはじめとする人材を見出し、育成した点も斉彬の重要な功績である。
5. 突然の死とその後の影響
1858年、斉彬は急死した。その死因をめぐっては、当時からさまざまな憶測が飛び交いましたが、確証ある史料は確認されていない。
斉彬の死後、薩摩藩の政治的影響力は一時低下し、西郷隆盛も流罪となるなど、藩内外に大きな影響が及んだ。
6. 島津斉彬が遺したもの
集成館事業を通じて育成された技術や知識は、のちの薩摩藩留学生や明治政府の工業化政策に継承されていく。
斉彬の功績は、直接的な成果以上に「基盤整備」にあったといえる。

7. まとめ|なぜ今、島津斉彬を見直すべきなのか
島津斉彬は、明治維新の当事者ではなかったが、その前提条件を整えた指導者であった。
革命家ではなく、改革者としての姿こそ、斉彬の歴史上の評価である。
