【前編】桜田門外の変は突然ではなかった──水戸藩と井伊直弼をめぐる「予兆の連鎖」
はじめに
桜田門外の変(安政七年・1860年)は、
大老・井伊直弼が雪の朝、突如として襲撃され命を落とした事件として語られがちです。
しかし史料を丹念に追うと、この事件は突発的な暗殺ではなく、少なくとも一年半以上前から「予兆」が積み重なっていた政治的帰結であったことが見えてきます。
前編では、
安政五年から事変直前までに、どのような警告・探索・暗殺計画が存在していたのかを整理します。

桜田門外の変の舞台となった江戸城・外桜田。事件は、この場所で起こった。
1. 「赤牛は敵を持った」──最初の警告
安政五年(1858)七月七日、
日米修好通商条約調印をめぐる「不時登城」問題により、徳川斉昭らが謹慎処分となった直後のことでした。
幕政参与・徳川慶頼の家臣・松永半六から、幕臣薬師寺元真を経て、
大老側役・宇津木景福に届けられた書状には、次のような警告が記されていました。
この書状は、慶頼家臣→幕臣→井伊側近という経路で大老周辺に届けられた、いわば「内部警告」でした。
赤牛(井伊直弼)、掛ケ(老中 太田資始)、鯖(老中 間部詮勝)の三人は、すでに敵を持ったと思い、身辺用心すべきである
ここで言う「敵」とは、水戸藩の斉昭派家臣──すなわち急進派天狗党を指しています。
この段階で、すでに直弼襲撃(暗殺)の可能性は、
「想定外」ではなく「警戒対象」となっていました。
2. 江戸屋敷警備の強化──直弼自身の危機認識
同月二十八日、直弼は宇津木に対し、
- 江戸城からの退出経路を限定すること
- 彦根藩江戸屋敷周辺の巡回を厳重にすること
- 屋敷近辺の見廻りを厳しくし、水戸家臣の出訴(直訴)に注意すること
など、具体的な警備強化策を命じています。

[図4] 江戸時代・安政2年 愛宕付近の図(『港区史』上巻)
これは、直弼自身が
「自分が狙われている」
という現実を、冷静に受け止めていたことを示しています。
謹慎処分に反発する水戸家臣が、井伊直弼のもとへ直接訴え出る行動を指しており、当時は暴発や襲撃に直結しかねない危険な動きと見なされていた。
3. 「登城途中で襲撃」──風聞から現実へ
さらに安政五年九月、関東取締出役から届けられた探索書には、
- 水戸藩士のうち、穏健派は直弼を評価している
- 斉昭派(天狗党)の者たちは直弼を深く恨む
- 登城途中で襲撃する計画を練っている
という内容が記されていました。
探索書の朱書には、
風聞とはいえ、容易ならざる次第
とあり、確証はないものの、看過できない危険として扱われています。
この「風聞」は、約一年半後、
まさにその通りの形で現実となるのです。
4. 密勅返納問題と水戸脱藩
安政六年(1859年)十二月、幕府は水戸藩に対し
「戊午の密勅」返納を命じます。
藩主慶篤は幕命を受け入れ返納を決定しますが、
急進派天狗党がこれに強く反発。
翌・安政七年二月には、
謹慎中の斉昭自身が返納を求めたことで、
天狗党は幕府・水戸藩双方から追い詰められる立場となりました。
追い詰められた彼らが選んだ道──
それが、大老井伊直弼の暗殺でした。
5. 事変十二日前の警告

安政七年二月五日、
水戸藩士の取り調べから、
- 彦根藩江戸屋敷への潜入
- 放火による混乱
- その隙に奥向きへ討ち入る
という、極めて具体的な暗殺計画が発覚します。
さらに二月二十二日、
水戸藩主慶篤自身が
天狗党の乱暴者が、長岡から江戸へ出るやもしれない
と警告を発しています。
幕府も捕縛命令を出しましたが、
(安政七年二月二十二日の警告から)十二日後の三月三日、桜田門外の変が起こりました。
▶ 前編まとめ
- 警告があり
- 探索があり
- 具体的な暗殺計画も把握されていた
にもかかわらず防げなかった事件でした。
では、事件後、幕府と彦根藩はどう動いたのか。
直弼の死は、何を生み、何を失わせたのか。
👉中編では、雪の桜田門外の惨劇を起点に、事変後の政局の変化と彦根藩内部の動揺、そして直弼を支えた側近たちに待ち受けていた運命をたどります。
※本記事は三部作の前編です。中編では事変後の政局と彦根藩内部の動揺を扱います。


