中編:富田城奪還──尼子経久の奇策と知略による下剋上
kirishima
やまのこゑ、いにしえの道
はじめに:苛烈さの正体とは?
織田信長は、家臣や民衆に対して容赦のない命令を下した「冷酷な独裁者」とも評されます。
しかしその苛烈さは、本当に残虐性から来るものだったのでしょ うか?
本稿では、信長の非情な命令の背後にある「命令が通らない現実」と、それに対処せざるを得なかった“自衛”としてのリーダー像を掘り下げます。
信長の苛烈さを象徴するのが、1570年代の石山本願寺戦です。
全国の一向宗門徒を束ね、宗教的情熱で動く本願寺勢は、まさに「国家内国家」とも呼べる存在でした。
信長はこの巨大勢力を軍事的に包囲し、周辺村落に対して次のような命令を出しています。
もし敵に内通する者があれば、その家のみならず村ごと焼き払うべし
これは冷酷な命令に見えますが、背景には本願寺勢に通じた裏切り者が出れば、全戦線が瓦解するという現実的な危機がありました。

現代とは異なり、戦国のリーダーが命令を出しても、それが忠実に実行されるとは限りません。
『信長公記』にはそうした逸話がいくつも記されています。
苛烈な命令は、こうした“命令軽視”の風潮を正すための「最後の武器」だったのです。
信長の命令が苛烈であればあるほど、それは“統制”というよりも“自衛”だったのではないでしょうか。
つまり、信長は命令によって組織を「無理やり」でも動かそうとした。
それは命令に頼らざるを得ないリーダーの、苦し紛れの選択だったのです。
信長の苛烈な命令を見て「冷たい人間だった」と評するのは、表面の印象に過ぎません。
実際は、命令が通らない組織で、それでも勝利を掴まなければならないリーダーとしての苦悩の表れだったのです。
“苛烈”とは、理想と現実の板挟みに立つ者が背負う、「声なき叫び」だったのかもしれません。