将軍継嗣問題(1853–1860)──沈黙の将軍と大老が動かした幕末最大の政争
幕末最大の政争「将軍継嗣問題」──その実像は単なる後継者争いではない

教科書では「将軍の後継争い」とだけ紹介されがちな将軍継嗣問題。しかし、その舞台裏では、幕府と朝廷、有力大名たちの思惑が激しくぶつかり合い、幕末政局の針路そのものが揺らいでいました。
一般には、一橋慶喜と紀州慶福(のちの家茂)のどちらを次の将軍にするかという“家督争い”として語られがちな将軍継嗣問題ですが、実際には、
- 幕府と朝廷の力関係
- 有力大名たちの政治構想
- 対外危機への対応戦略
が複雑に絡み合う、幕末政治の根幹に関わる政変でした。
そして、この争いの中心にいたのが、
- “暗愚の将軍”として誤解されてきた徳川家定
- 幕政を主導した大老・井伊直弼
の二人です。
近年の研究と一次史料の読み直しにより、従来のイメージとは異なる“実像”が見えてきます。
本記事では、
- 「一橋慶喜 vs 紀州慶福」の対立構図
- 家定の“内意”の意味
- そして直弼が公表へ踏み切るまでの政治劇
を史料をもとに追っていきます。
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「分裂する幕政──一橋派 vs 紀州派」その政治構想の違い

幕府内では、家慶の逝去後まもなく、継嗣をめぐって二つの勢力が動き始めました。
■ 一橋慶喜を推す:松平慶永・島津斉彬ら有力大名の再編構想

その密談は
- 嘉永六年七月、家慶の喪で総出仕となった際、松平慶永は、島津斉彬と一橋慶喜を将軍継嗣とする案(『昨夢紀事」)
であり、同年八月には、慶永が老中・阿部正弘を訪ね慶喜擁立への賛同を求めた。
- 幕府と諸藩の力を再編・結集し、内外の危機に対応する
- 朝廷の政治的台頭を抑えつつ、幕府の主体性を守る
- 英明な将軍(=慶喜)を立て、有能な親藩・外様大名と連携する
いわゆる「尊王攘夷」ではなく、封建体制の再編と権力集中を目指す現実的な構想でした。
■ 紀州慶福を支持:井伊直弼の“大政委任論”と伝統重視

一方井伊直弼は、
- 対外的危機(列強との条約・開国問題)を最重要課題
- 国内の分裂を抑えて秩序維持を図る
- 原則は尊王だが大政委任論(国政は幕府に一任されている)を前提とする
という立場に立っていました。
そのうえで直弼は、

幕府と朝廷の信頼を強める「公武合体」によって、幕藩体制を一層強化すべきだ
と考え、将軍継嗣については、
- 伝統的血統論から、紀州藩主・徳川慶福が当然
- 将軍は「下から選ぶものではない」
→ あくまで 将軍自身の意志によって決定されるべき
と主張しました。
直弼と慶永の違いは、単なる人物論ではなく、国家の舵取りに対する根本的な立ち位置の違いでした。
沈黙の裏で──家定が密かに握っていた決定権
表向きは病弱で、政治への関心も薄いとされてきた家定。しかし一次史料を読むと、その像は覆ります。
■ 井伊直弼・松平乗全との相談──直弼の“心痛”
安政元年五月、直弼は老中・松平乗全 に対し、「いまだ将軍継嗣が決まらないことを心痛している」と漏らしていました。

- 「御養子(継嗣)が決まれば人心も安定する」
- 「当年中には決定してほしい」
と述べ、自らの考え(愚存)も伝えています。
名指しはしていないものの、のちの発言から、
この時点で既に紀州慶福を念頭に置いていたと考えられます。
■ 決定打:家定自身の“内意”

安政五年正月十六日、老中たちは将軍家定の前で、
近いうちに継嗣をお定めいただきたい
と申し上げます。
これに対し家定は、次のような内意を示しました(要旨)。
- 以前から継嗣の件を深く気にかけていた
- 一橋慶喜を推す声は承知しているが
- 「一橋だけは決してありえない」
- 先々代(家斉)から、後継は紀伊殿にと聞ている
要するに家定の心中ではすでに
紀州慶福を継嗣とする方針が固まっていたのです。
この発言により、
- 老中の間では継嗣問題は「決断」となり
- 堀田が帰府してから正式決定へ進める、という流れが固まりました
一橋派の奔走の裏で、当の将軍は静かに「紀州慶福」を選んでいた──
この事実が、後の政局を大きく揺さぶることになります。

慶福は、家斉の孫で家定の「いとこ」→「御筋目」
政局が動き出す──家定と直弼の強固な信頼関係
■ 大老「就任」へ──将軍からの“厚い信頼”

安政五年四月二十三日、井伊直弼が大老に就任します。
これは、松平慶永を大老としたい一橋派にとっては大きな打撃でした。
就任直後、直弼は将軍家定と面談し、非常時の政務について次々と意見を交わしていきます。
「公用方秘録」によれば、

在任中は遠慮なくご意見を述べてほしい
非常時にあたって直弼を「深く頼りにする」
以後、直弼はたびたび「御壱人召され」て将軍と直接相談するようになり、
家定との信頼関係は急速に深まりました。
■ 継嗣「内定」へ──家定の決断が形になるまで
安政五年五月三日付の直弼書簡によれば、
- 老中一同は将軍の御前に出て、縁戚候補たちの実情を率直に報告
- 最終決定は「上慮次第」
そして五月一日(朔日)
- 再び召し出された老中に家定は「継嗣は紀伊殿(紀州慶福)である」との決心を示す
- 継嗣公表の準備を進めるよう命じた
ここで、家定の「内意」は、公式な「継嗣内定」という段階へと一歩進んだことになります。
条約・罷免・対立の連鎖──六月の政変はこうして起きた

条約調印・老中罷免とからみ合う六月のドラマ
六月、情勢は一気に加速します。
| 日付 | 内容 |
|---|---|
| 6月1日 | 継嗣内定の上意を通達 |
| 6月2日 | 継嗣内定を朝廷に奏請 |
| 6月17日 | ハリスから急報 |
| 6月19日 | 日米修好通商条約の調印 |
| 6月23日 | 老中罷免と秘匿発覚 |
| 6月24日 | 紀州慶福を将軍継嗣と公表 |
● 直弼の決断:継嗣公表へ動き出す
直弼が継嗣内定の「公表」を具体的に決意したのは、安政五年六月一日頃でした。
- 幕府は御三家・常溜大名に対し、「御筋目の内」から継嗣を定めるという上意を通達
- 翌二日には、将軍継嗣内定を朝廷に奏請
家柄や身分の正統性や筋目(家系・血筋)の正しさを指す。特に徳川家の正統な系譜から外れないことを強調しています。
直弼は、

朝廷からの返答は十四日頃に到着するはずだから六月十八日に継嗣公表をしよう
というスケジュールで動こうとしていました。
● 堀田正睦の“秘匿工作”と、急変する情勢
ところが、事態は思わぬ方向へ進みます。
- 朝廷からの返答書は八日付で発信、十四日までには江戸に到着
- 老中・堀田正睦 は奥右筆・志賀金八郎に命じ、返答書が未着であるかのように秘匿
- 大老・直弼には、「まだ返答が届いていない」と報告
継嗣公表を前に状況が不透明な中、六月十七日、ハリスから急報が入り、日米修好通商条約をめぐる問題が一気に緊迫化します。
その結果──
- 六月十九日に条約調印
- 二十三日には、条約調印をめぐる失態の挽回と政局安定化のため、堀田正睦・松平忠固らの罷免と人事刷新
- 同日、堀田による朝廷返答書の秘匿が発覚→ 朝廷が継嗣に異議を唱えていないことが判明
孝明天皇は「条約締結の前に、再度諸大名の意見を聞くように」と幕府に命じており、勅許がないまま調印するなら、諸藩の合意を取る必要があったのです。
六月二十四日、幕府は御三家・御三卿以下の諸大名・幕臣に総登城を命じ、正式に 紀州慶福を将軍継嗣とすることを公表。
「暗愚」の誤解を超えて──将軍継嗣問題の実像

単なる「後継者選び」の争いだけでなく。幕府と朝廷、諸大名がこれからどのような形で国の舵取りに関わっていくのかをめぐる、幕末政治の根幹に関わる争いでもあったのです。
将軍継嗣問題を通して見たとき、家定の評価は大きく書き換えられています。
- 「暗愚」とされた家定は、実は情報遮断により誤解されていた
- 実際には「賢明仁憐」の側面を直弼らは確認している
- 直弼は大政委任論と公武合体により、幕府権威の維持を目指した
- 家定は継嗣問題では主体的に“紀州慶福”を選んでいた
- 大老就任後の直弼は、家定の厚い信頼を得て、継嗣内定から公表まで一気に押し進める
こうしてみると、
「暗愚な将軍」と「専制的な大老」という単純なイメージでは語りきれない、生身の人間たちの思惑と信頼関係が浮かび上がってきます。
