大老就任──井伊直弼を取り巻く政局と「時節到来」の自覚
井伊直弼が大老に就任した背景には、単なる人事以上の「政局の読み」がありました。本記事では、大老という役職の性格から、就任前夜の緊迫した空気までをたどります。
大老とはどのような役職だったのか

江戸前期〜幕末にかけての名称の変遷
江戸幕府における「大老」という職名が定着したのは、貞享・元禄期(17世紀後半)の頃とされます。それ以前の公式記録では「御家老」「御執権」などの呼称が用いられ、元禄期以前の人物を「大老」と位置付けることには議論があります。
本稿ではその細かな議論を脇に置き、幕末編纂の史料『柳営補任』などにみえる「大老」認識の二つの系統を確認しておきます。
大老に存在した二つの系統(執事職系/元老系)
①「執事職」系統(将軍後見型)
井伊直政・本多忠勝・榊原康政・井伊直孝・松平忠明・保科正之・井伊直澄・榊原忠次・井伊直興
→『武鑑』では「御太老」と記載。
②「元老」系統(政務担当型)
酒井忠世・土井利勝・酒井忠勝・酒井忠清・堀田正俊・柳沢吉保・井伊直幸・井伊直亮・井伊直弼・酒井忠績
→『武鑑』では「御家老」と記載。
どちらも老中より上位に位置付けられた重職でしたが、正式な職務規程はなく、その政治的影響力は人物の器量によって大きく左右されました。このうち、実質的な政務を担ったと考えられるのは、酒井忠清・柳沢吉保、そして幕末の井伊直弼です。
井伊家が老中を経ずに大老に就いた理由
興味深いのは、井伊家出身の大老は 一人も老中を経験していない という点です。井伊家では、老中の評議を行う「御用部屋」に出入りする「御用部屋入り」という期間を経たのち、大老職に就くのが通例でした。
大老就任の前兆──薬師寺元真の「密話」
斉昭陰謀説が伝えられた夜

安政五年(1858)四月二十二日の夜、幕府の御徒頭・薬師寺元真が急ぎ江戸彦根藩邸を訪れ、

御上の一大事につき、藩主直弼に直接面会したい
藩邸側は「容易ならざる事」と判断し応対しましたが、薬師寺が語った内容は衝撃的でした。
水戸斉昭が将軍家定を押し込み、一橋慶喜を立て、権威を振るおうとしている
いわゆる 斉昭陰謀説 です。
長野義言が早くから察知していた一橋派の動き

薬師寺はその後も再訪し、海防掛を中心とする阿部政権の幕臣らが斉昭に同調している可能性にも言及。こうした情報は彦根藩邸に緊張をもたらしました。
さらに、二日前の四月二十日、直弼の側近・長野義言も一橋派の陰謀の兆しを上書で指摘しており、「将軍押込の恐れ」をすでに粛然と語っていました。
幕閣内部で広がっていた政変への不安
薬師寺の情報提供は突飛な噂ではなく、当時の幕閣内部で広く懸念されていた「政変の可能性」を裏づけるものでした。
突然の「御用召」──大老指名の決定
松平慶永推挙を退けた将軍家定の判断

薬師寺入説の直後、直弼のもとへ老中から奉書が到来します。
藩邸では
御用部屋入りか、あるいは大老職ではないか
と推測し、確認のため奥右筆に内々の事情を探らせたところ、

御大老職仰せ付けられる
との返答を得ました。
しかも、老中首座・堀田正睦 は当初 松平慶永(越前)を大老に推挙 したものの、将軍家定はこれを退け、
家柄と人物を考えれば、越前よりも井伊を推すべき
とし、直弼を指名したとされます。
彦根藩邸に走った衝撃と困惑
この決定は、彦根藩にとっても「俄か事の由」と記録されるほど、完全に予想外のものでした。
薬師寺情報は虚構だったのか?研究者の議論
後年、研究者の吉田常吉氏は、薬師寺が南紀派に取り入るため「虚構の陰謀」を語った可能性を指摘しています。
しかし、
- 御三家(水戸家)が関わる重大事で虚構を語れば極めて危険
- 大奥では水戸斉昭・一橋慶喜への反感が根強かった
- 松平慶永自身の回想(『逸事史補』)に慶喜擁立の「私心」への言及がある
- 長野義言も薬師寺より前に陰謀の可能性を報告している
一橋刑部卿(慶喜)を将軍としようとする企ては、
老公の私心と欲望によるところが大きい。
などから、完全な作り話と断定することは難しく、
一橋派の動きが「現実の脅威」として認識されていた 可能性は高いといえます。
直弼の「時節到来」──宇津木景福との対話

国家大難の時期に拝命した覚悟
薬師寺の情報提供から間もなく、直弼は側近・宇津木景福と次のような会話を交わします(『公用方秘録』)。
宇津木は、国家の大難ゆえのお役であるので「ご忠勤」をと説き、直弼は

身を厭い家を思うべき時ではない。粉骨砕身して忠勤する
と応えます。
宇津木による「太平の後は辞職を」の進言
さらに宇津木は「国家が太平に戻れば、早々に辞職を」と勧め、直弼は驚きつつもその意を受け入れました。
このやり取りから、
直弼が自らの役目を “時節到来” と受け止め、覚悟を固めていたこと
がよくわかります。
大老拝命当日──即日政務に参加した直弼
「一老之上」への着座と海防議論への参画

翌二十三日、直弼は登城して老中より正式に大老職を拝命します。井伊家の先例に従い、いったん辞退を申し入れましたが、将軍家定からの強い命令により受諾しました。
そしてその日のうちに「一老之上(大老の特別席)」に着座し、海防問題を含む政務議論に即座に参加します。
老中・幕臣を驚かせた政治判断の速さ
幕府奥右筆・原弥十郎は、直弼がその日のうちに海防策へ異論を述べたことを驚き、
と証言しています。
老中や一橋派の人々が「児童のような男」などと軽視していた直弼の実力が、ここから一気に明らかになっていくのです。
まとめ──大老就任に重なった複数の要因
- 水戸斉昭・一橋派による政変の可能性
- 大奥・幕閣内の微妙な力学
- 将軍家定の強い意志
- 薬師寺・長野らの敏感な情報網
- 直弼自身の「時節到来」の覚悟
といった複数の要因が重なった結果でした。
就任直後から議論に加わり、瞬時に存在感を示した直弼は、ここから条約批准・安政の大獄など幕末史を大きく動かしていくことになります。
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