【後編】井伊直弼は何を守ろうとしたのか──桜田門外の変と「秩序の政治」の真実
桜田門外の変で命を落としたのは井伊直弼だけではありません。
その構想を支えた側近たちもまた、「国害の元凶」とされたのち、歴史の表舞台から姿を消していきました。
井伊直弼は、いったい“何を守ろうとしていたのか”——。
本稿では、宇津木景福が娘に残した遺言「書置之事」と、直弼の事績を記した『公用方秘録』を手がかりに、彼らの無念と、直弼が貫こうとした政治観・秩序意識を、三部作のエピローグとして振り返ります。
1. 宇津木景福の遺言──「悪名をすすいでほしい」

文久二年(1862年)十月二十七日、斬首を前にした宇津木景福は、娘・浜に宛てて「書置之事」と題する遺言を残しました。(宇津木三右衛門家文書)
この度、我等如何様の御仕置仰付けられ候とも、君命是非に及ばず候、女の愚智にて彼是申されては、みれんの至り、武士の娘にはこれなく候、この旨よくよく御心得専一に候、文之進事、去十日夜遁世いたし行衛相知れ申さず、さてさて不所存者、立ち入り候事、我等代りに忠勤致させ度と存居候処、言語同断不埒之事に候、そなたには重々の不仕合、嘸々当惑察入り候、是も前世の約束とあきらめ、亀太郎・松二郎を守り立て、万々一之節、忠勤を尽し、文之進・我等の悪名をすすぎ候様、御教導頼入候、いつぞは悪党共御退治遊ばるべく、其節忠勤を尽し申すべき心得にて恥を忍び今日迄存命いたし、恥に恥を重ねさてさて残念御さっし給うべく、(中略)
このたび、私がどのような処罰を命じられても、君命であり、是非を論じることはできません。
女性の浅はかな考えで、あれこれ言い立てるのは、未練がましいことであり、武士の娘の取るべき態度ではありません。このこと肝に銘じてください。
文之進が、去る十日の夜に逃亡して、行方不明になりました。まったくもって心得違いの行いであり、私の代わりに忠勤を尽くしてもらいたいと思っていたのに、言語道断、不埒な振る舞いです。
あなたには、まことに重ね重ねの不幸であり、どれほど困惑していることかと察しています。しかし、これも前世からの因縁と諦め、亀太郎と松二郎をしっかり守り育て、万一の時には、忠勤を尽くし、文之進と私に着せられた悪名をすすぐよう、よくよく教え導いてください。
いつの日か、私を陥れた悪党どもが(藩主直憲により)退治される時が来るでしょう。その時には、忠勤を尽くす覚悟で、恥を忍びながら今日まで生き長らえてきましたが、恥の上にさらに恥を重ねることとなり、まことに残念でなりません。その心中をお察しください。
(以下略)

彦根藩・幕府に忠節を尽くしてきたのに、なぜこのような仕打ちを受けねばならないのか…。無念である
2. 『公用方秘録』が示す直弼像

ここでは、宇津木がどのように「直弼政権を記録しようとしたか」を見ます。
■ 宇津木の歴史認識
宇津木景福は、処断される直前まで、井伊直弼の事績を記録するために『公用方秘録』の編纂に従事していました。
残る史料からは、三つの時期区分と表題の変化が読み取れます。
- 安政五年四月〜十二月二日
「公用方秘録」 - 安政五年十二月六日〜安政六年九月十四日
「公用深秘録」 - 安政六年十月八日〜同月二十三日
「公用秘録」(未完)
これらは政治状況の転換点に合わせてタイトルや区切りが変えられている。
■ 将軍宣下の日の「喜びの書状」

「公用方秘録」の最後に収録された書状の写しは、徳川慶福(家茂)の将軍宣下(安政五年十二月一日)の翌日に、宇津木が長野へ宛てたものです。
そこには、
明日二は将軍宣下も御首尾能相済、恐悦至極、是にて人心も落付、御上にも一御安心、乍恐、小子迄も有り難く、実に天下の幸福と奉存候、天気快晴にて、万民御登城拝見群集いたし、君上之御徳を口々にも申唱居、聞度に嬉しき心地能き事に御坐候
- 将軍宣下が無事に済んだことへの心からの喜び
- 晴天の中、群衆が登城行列を見守り、
- 「君上」(直弼)の徳を口々に称えていたこと
- それを聞くたびに、「天下の幸福」であり、嬉しくてたまらない
という率直な感情が綴られています。
ここに見えるのは、直弼の側近として忠節を尽くしてきた彼の率直な実感であろう。
この「到達点」があったからこそ、その後の安政の大獄や条約勅許問題の苦悩が、より一層重くのしかかってきたと言えるでしょう。
3. 直弼の政治意識──秩序という信条
最後に、井伊直弼自身の政治意識について整理しておきます。
■ 埋木舎時代に育まれた「秩序意識」

直弼は譜代筆頭の井伊家に生まれながらも、跡取りではなく、また生え抜きの政治家でもなく、「部屋住み」として埋木舎で修養する生活を送りました。
その中で身につけたものは、
- 茶の湯・和歌・古典・武術を通じた 原点追求の姿勢と論理的思考
- 儒学的倫理観に根ざした 武士道精神
- 強い秩序意識、身分に応じ社会的役割を果たす強固な分限意識
でした。
これらは、社会秩序を守ることこそが政治の基本であるという考え方につながっています。
■ 「復古的改革主義」としての直弼

直弼の秩序意識は、単なる現状維持の保守主義ではありません。
むしろ、
「秩序が揺らいでいる現状」への強い批判に立ち、本来あるべき姿に立ち返ろうとする復古的改革主義
と言うべきものです。
- 中川禄郎から学んだ儒学的政治観→「藩政秩序」
- 長野義言から受けた国学的国体観→「朝幕藩関係秩序」
- 井伊家が歴史の中で培ってきた「幕藩制秩序」
これらを、自身の政治意識の中で統合し、
- 仁政の実行
- 尊王でありながら朝廷から庶政委任された幕政の尊重
- 家臣のいましめを聞く
- 家老による評議の重視
- 教育による人材育成
- 溜詰大名として任務遂行
- 京都守護の内命を受けた「譜代筆頭の大名」としての役割遂行
すべてが 「秩序維持」 へ向かう。
幕末期において、朝廷(天皇)が幕府に対して一般の政治(庶政)を委任することを指す言葉
溜詰は、黒書院溜之間、の部屋に入ったことを名前の由来とする。溜間は将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった
■ 側近登用とその「副作用」
直弼は、こうした構想を実現するために、政治知識が豊富で行動力のある人材を積極的に登用します。
- その中核となったのが 長野義言と宇津木景福
- 嘉永六年以降、側近のほとんどは長野の門人
この体制は、藩内での方針統一という面では非常に効率的でしたが、
- 政治意識や秩序観の異なる幕閣・幕臣たちと「確執」を生じ、
- 文久二年以降の彦根藩政変の中で、長野・宇津木だけが「国害を醸した」として処断される
という、皮肉な帰結も生みました。
■ 「独裁者」か、それとも「愚直な閣僚」か
安政の大獄や水戸藩への厳罰から、直弼はしばしば「独裁的な大老」とイメージされがちです。
しかし実際には、
- 老中評議・将軍伺いという形式をきちんと踏まえ、
- 大老専決が認められていない状況の中で、
- 老中や他の幕閣との確執に悩みつつ、あくまで「閣議の一員」として自らの使命を果たそうとした
という側面も、史料からは浮かび上がってきます。
直弼の生涯は、「武家として、大名として、どう生きるべきか」という問いに対し、
自らが掴み取った信条を終生貫き通そうとした道のりだった。
おわりに──桜田門外の変をどう捉えるか

桜田門外の変は、
- 水戸藩と幕府の対立
- 公武合体構想をめぐる駆け引き
- 尊攘派志士の台頭
- 井伊直弼の強い秩序意識と、それに反発する勢力
が複雑に絡み合った末に起きた事件でした。
その渦中で、
- 長野義言・宇津木景福といった側近は、直弼の構想を支えた功臣でありつつ、「国害」の元凶として処断される
- 宇津木の遺言には、「悪名をすすいでほしい」という、忠臣としての無念が刻まれている
という点も、見過ごせないポイントです。
桜田門外の変を「テロか、正義か」といった単純な図式だけで語るのではなく、
直弼が何を守ろうとしたのか
それがなぜ周囲の反発と悲劇を生み出したのか
という視点から、あらためて幕末史を見直してみる――
その手がかりとして、このエピローグがお役に立てば幸いです。
参考文献
- 宇津木三右衛門家文書
- 公用方秘録
- 侍中由緒帳
