水戸藩への密勅と安政の大獄の発端
安政の大獄は、突然始まった事件ではない。
その発端は京都で密かに動いていた政治工作にあった。
幕府の無断条約調印に激怒した孝明天皇は、幕府を通さず水戸藩へ密かに意思を伝える。いわゆる戊午の密勅である。
この異例の事態を察知した幕府は、彦根藩士長野義言を京都に送り込み、朝廷と志士の動きを探らせた。
やがて京都町奉行所の探索によって志士と公家の連絡が露見し、梅田雲浜逮捕へと事態は急転する。
ここから幕末最大の政治弾圧、安政の大獄が始まった。
日米条約調印と朝廷の激怒
安政五年(1858)六月、幕府はアメリカとの日米修好通商条約に調印した。しかしこの条約は、本来必要であった天皇の勅許を得ないまま締結されたものであった。
条約調印からわずか七日後の六月二十六日、幕府は調印の事情を説明し改めて勅許を得るため、老中間部詮勝の上京を決定する。ところが、条約調印を知った孝明天皇は激怒し、譲位の意志を示すほど強い反応を示した。
関白九条尚忠らが必死に説得し、三家・大老の召致による事情聴取という形でようやく事態は一旦収まる。しかし幕府はこれに応じず、老中間部詮勝と新任の京都所司代酒井忠義が事情説明にあたると回答した。
この時点で、朝廷と幕府の関係はすでに深刻な緊張状態に入っていた。
京都情勢の探索 ― 長野義言の上京
大老井伊直弼は、京都の情勢が急速に悪化していることを察知していた。そこで幕府側の工作を進めるため、家臣の長野義言を京都へ派遣する。
義言は九条家家士の島田左近と連絡を取りながら、朝廷内の動きを探っていた。島田からの密書によれば、
- 関白九条尚忠は辞職を迫られている
- 背後には青蓮院宮や一橋派の廷臣がいる
- その根源には水戸藩主徳川斉昭の影響がある

青蓮院宮は、孝明天皇の近辺にあって政治上の相談相手の一人と見られた存在である。幕末の朝廷政治では、こうした門跡宮の動向も重要であった(徳富蘇峰『維新回天史の一面』)。

という情報が伝えられていた。
井伊直弼はこの報告を受け、義言を再び京都に派遣し、朝廷内の動向を詳しく探らせた。
しかし京都に入った義言は、到着直後から志士側の監視と圧迫にさらされることになる。
志士の探索網と義言への攻撃
義言が入京した翌日、京都の堂上五家の屋敷に一通の投書が投げ込まれた。それは義言を激しく弾劾する文書であり、
- 義言は条約調印を正当化するために朝廷を欺こうとしている
- 一橋慶喜を排し、紀州慶福(後の家茂)を将軍後継にした
- 井伊直弼の寵臣として策謀を巡らしている
といった内容であった。
このような攻撃は、志士側の情報網が非常に強力であったことを示している。実際、彼らは義言の行動をかなり詳細に把握していた。
義言自身も暗殺の危険を感じ、夜行の際には護衛を伴うなど厳重な警戒を行っていた。
水戸藩への密勅
安政五年八月七日、京都では朝議が開かれ、幕府と水戸藩に対して勅諚を下すことが深夜になって決定した。
この勅諚の趣旨は、幕府が勅許を得ないまま日米条約に調印したこと、さらに尾張・水戸・越前三家の処罰に対する不満を示すものであった。そして幕府は三卿・家門・諸藩と協議し、国内の秩序を整え、公武合体を実現し、外国の侮りを受けない国家体制を築くべきであると命じたのである。
この勅諚そのものは、幕府にも同時に伝えられているため密勅ではない。
しかし、この勅諚には別に一通の添書が付されていた。そこには、この勅諚は国家の大事であり徳川家を扶助するための思召しであるから、列藩一同、とくに三家・三卿・家門の衆以上は隠居に至るまでこの趣旨を伝達し、広く協議して国家を安泰に導くように、との命が記されていた。
世にいう「戊午の密勅」とは、この添書のことを指す。
この添書は幕府を通さず、直接水戸藩に下されたため、幕府の統制と権威を揺るがす前例のない措置となった。これによって幕府は事態を重大視し、取り締まりを強めていくことになる。

密勅の降下は、幕府の統制を外れて水戸藩へ直接意思を伝えた点で、きわめて異例の措置であった。結果として幕府の強い反発を招き、政治対立を一気に深めることになった。
幕府の探索の失敗
この重大な密勅の動きを、長野義言は事前に察知することができなかった。
彼が密勅の存在を知ったのは、降下から数日後であったという。つまり幕府の情報網は、志士側や朝廷内部の動きを完全には把握できていなかったのである。
とりわけ問題だったのは、義言が密勅の降下そのものを未然に察知できなかった点である。幕府は京都に探索網を張っていたが、朝廷・志士側の極秘工作の前では決定的な情報をつかめなかった。
義言は後にこの失策を弁解するような報告を江戸に送っているが、実際には幕府側の探索の限界が露呈した出来事であった。
梅田雲浜逮捕と大獄の発端
ところがこの頃、別方面から志士の陰謀を裏付ける証拠が現れた。
水戸藩と関係の深い山本貞一郎は、尾張・水戸・越前三侯の赦免や松平慶永の後見職就任を実現するため京都で公家への働きかけを行っていた。
ところが九月三日、京都町奉行所の目明しが近藤茂左衛門方の飛脚を捕え、暗号を含む書状を押収したことから事態が急展開する。家宅捜索によって山本の手記が発見され、志士と堂上方との連絡が明らかとなった。
この事件を決定的証拠として、京都所司代酒井忠義はついに梅田雲浜逮捕に踏み切り、ここに安政の大獄が始まることとなった。幕府にとって梅田雲浜の逮捕は、単なる一志士の拘束ではなかった。朝廷と志士、さらには水戸系勢力の連携を断ち切るための、最初の本格的な政治弾圧だったのである。
井伊直弼の決意
京都の情勢は、彦根藩士長野義言によって江戸へ刻々と報告されていた。
すでに水戸藩に降下したいわゆる戊午の密勅について、直弼はその背後に徳川斉昭の策謀があると疑っていた。斉昭が公家勢力と結び、幕府の権威を揺るがそうとしているという見方である。
しかしこの段階で直弼は、ただちに朝廷を敵視していたわけではない。彼の方針は、京都で活動する尊攘志士の動きを抑え、強硬な廷臣の行動を牽制することで、水戸藩の陰謀と見た動きを挫こうとするものであった。朝廷に対しては、条約調印の事情や幕府の苦心を率直に奏上すれば、天皇の理解を得られるはずだと信じていたのである。
そのため直弼にとって、朝廷との連絡役である関白九条尚忠の存在は極めて重要であった。九条関白が在職する限り、幕府の事情は朝廷に達しうると考えていたからである。
ところが安政五年九月、九条関白が辞職を迫られているという報が江戸にもたらされる。長野義言の報告によれば、朝廷内では幕府に不信感を抱く廷臣が勢力を強め、関白の地位すら危うくなっているというのであった。この知らせを受けた直弼は大きな衝撃を受ける。もし九条関白が退けば、幕府の立場を朝廷に伝える道が失われてしまうからである。
この頃から、直弼の疑念は急速に強まっていく。島田左近や長野義言の報告によって、朝廷内で水戸派と結ぶ勢力が幕府転覆を企てているという「水府陰謀説」が、彼の中で確信へと変わっていったのである。
九月十三日、直弼は老中間部詮勝および京都所司代酒井忠義に対し、水戸藩士や志士の動向を厳しく取り締まるよう指示した。さらに水戸藩の陰謀を朝廷に奏上するための文案を作成し、幕府の立場を明らかにしようとした。
この時、直弼の決意をさらに固めたのが、上京中の老中間部詮勝の報告であった。間部もまた水戸藩を中心とする陰謀の存在を強く疑い、断固たる処置をとるべきだと進言していたのである。こうして直弼は、水戸派の勢力を一掃するための強硬策に踏み切る決意を固めた。
安政の大獄 全体時系列(1858–1860)
| 発生年月日 | 説明事項 |
|---|---|
| 1858年(安政5年)6月19日 | 幕府、勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印 |
| 1858年(安政5年)6月 | 孝明天皇、無勅許調印に激怒し、幕府と朝廷の関係が急激に悪化 |
| 1858年(安政5年)7月 | 尊攘派の公家・志士が京都で活動を活発化 |
| 1858年(安政5年)8月7日 | 朝議で幕府と水戸藩への勅諚決定 |
| 1858年(安政5年)8月8日 | 幕府と水戸藩へ勅諚、水戸藩には別勅(戊午の密勅)降下 |
| 1858年(安政5年)9月3日 | 京都町奉行所が近藤茂左衛門関係書状を押収 |
| 1858年(安政5年)9月5日 | 近藤茂左衛門逮捕、志士と堂上方の連絡が発覚 |
| 1858年(安政5年)9月7日 | 京都で梅田雲浜逮捕。安政の大獄が始まる |
| 1858年(安政5年)9月〜 | 尊攘派志士の逮捕が全国へ拡大 |
| 1858年(安政5年)10月 | 橋本左内逮捕、頼三樹三郎逮捕 |
| 1859年(安政6年) | 安政の大獄本格化 |
| 1859年(安政6年)6月 | 橋本左内処刑、頼三樹三郎処刑 |
| 1860年(安政7年)3月3日 | 桜田門外の変、水戸浪士らが井伊直弼を暗殺 |
おわりに
安政の大獄は単なる政治弾圧ではなく、
- 無断条約調印
- 朝廷の政治介入
- 水戸藩と幕府の対立
といった幕末政治の危機が生み出した事件であった。
特に水戸藩への密勅は、幕府の権威を揺るがす重大な出来事であり、井伊直弼が強硬策に踏み切る大きな契機となった。つまり安政の大獄は、単なる「井伊直弼の苛烈さ」だけで説明できる事件ではなく、条約問題・朝廷工作・情報戦・政治的不信が折り重なった末に生じた幕末最大級の政治危機だったのである。
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