馬見丘陵公園の古墳|馬型埴輪と葛城氏、日本に馬が来た日
古墳の斜面に、花水木が咲いている。
その枝の下に、私は立っている。
※この旅の写真は、インスタグラム @kirishima_mura(誰かの旅のつづき)でも公開しています。

1600年前、ここには花ではなく、並んだ馬型埴輪があったと考えられている。
なぜ、馬だったのか。
誰のために、並んでいたのか。
この丘の名は、馬見(うまみ)。「馬を見る」と書く。
春になれば、何百本のチューリップとネモフィラがこの丘を染める。写真映えする奈良の花の名所として、近年ずいぶん有名になった。けれど、この場所の本当の顔は、花ではないと思っている。
1. 奈良・馬見丘陵公園で、花の向こうに見えたもの
花の名所は、実は巨大な古墳群だった
奈良県北葛城郡にまたがる馬見丘陵公園は、面積約65ヘクタールの広大な県営公園である。春はチューリップ、初夏はバラ、秋はダリア。花の季節ごとに訪れる人が増え、SNSでも人気の高いスポットだ。

けれど地図を開いてみると、公園の中にいくつもの丸い緑のかたまりがある。
これらはすべて、古墳だ。
園内には、ナガレ山古墳・巣山古墳・新木山古墳・乙女山古墳など、4世紀から6世紀にかけて築かれた古墳が30基以上点在している。これらをまとめて「馬見古墳群」と呼ぶ。大和王権ゆかりの、最重要の古墳群のひとつである。
花を眺めている場所の足元が、1600年前の墓。
そう知って歩くと、景色がまるで違って見える。
「馬見」という不思議な地名
この地名がずっと気になっていた。
日本の古い地名は、たいてい何かの「しるし」を残している。
「馬見」──文字のまま読めば「馬を見る」である。なぜ、この丘がそう呼ばれたのか。
実はこの問いの答えを追っていくと、日本史上でも屈指の事件にたどりつく。
それは、この国に初めて馬が渡ってきた瞬間の話だ。
2. 日本に、馬はいなかった
4世紀以前、馬の骨は出土しない
驚くかもしれないが、弥生時代の日本列島に、馬はほぼいなかった。
縄文遺跡・弥生遺跡からは、馬の骨がほとんど出てこない。埴輪も、絵画も、馬を描いたものはない。稲は渡ってきたが、馬は渡っていなかった。
それが5世紀に入ると、状況が一変する。
5世紀、突然あらわれた「馬型埴輪」
5世紀前半から中頃にかけて、日本各地の古墳で馬型埴輪が作られ始める。馬具を装着した立派な馬の姿を、土で写した埴輪である。同時に、本物の馬の骨も出土するようになる。

この変化は、考古学的に見て劇的だ。
ある日突然、この列島に馬という動物が登場したのである。
なぜ、どこから、誰が連れてきたのか。
この問いが、馬見丘陵の物語の入り口になる。
3. 海を渡ってきた、新しい技術
加耶・百済から来た騎馬文化
答えは、朝鮮半島にある。
5世紀の東アジアは、大国・高句麗が南下を続けていた時代である。高句麗は強力な騎馬軍団を擁していた。これに対抗するため、南の加耶(かや)や百済(くだら)では、騎馬戦術と馬匹生産が進んでいた。
そして、この技術が大和王権に伝わる。

高句麗の圧力を避けて、加耶(かや)や百済(くだら)の人々が渡来したのかもしれません。
馬を連れて、技術ごと逃れてきた──
そう考えると、単なる貿易ではなく、もっと切実な「移住」の物語が見えてきます。
技術とは、ひとつだけでは成立しない。
馬そのもの、馬を育てる飼料、馬具の製造、乗馬の訓練、繁殖の管理──これらが一式で動いて初めて「馬の文化」が根付く。
つまり、5世紀の日本に馬が来たとき、それは 「馬を連れた人々」がまとまって渡来した ことを意味する。加耶や百済の馬飼い集団が、技術ごとこの列島に移住してきたのである。
なぜ大和王権は、馬を求めたのか
馬は当時、現代の戦車に相当する軍事技術だった。
歩兵では届かない距離と速度。騎射は格段の威力を持つ。
大和王権がこの技術を求めたのは自然だ。
そして、朝鮮半島との外交交渉のなかで、馬と馬飼いを手に入れる。
では、その馬たちは、どこで飼育されていたのか。
4. 馬見丘陵の被葬者は誰だったのか
葛城氏──大和王権の外戚
大和王権の5世紀、天皇家と並ぶ権勢を誇った豪族がいる。
葛城氏である。

葛城氏は奈良盆地西部・葛城の地を本拠とし、応神天皇・仁徳天皇の外戚として王権中枢に深く食い込んでいた。有力な娘を天皇に嫁がせ、外交と軍事に関与した。
そしてこの葛城氏こそ、朝鮮半島との交渉と渡来人の管理を担当していた一族である。
馬を掌握した、もうひとつの権力
記録によれば、葛城氏の系譜に連なる「馬飼部(うまかいべ)」という職能集団がいた。馬を飼育し、管理する専門の人々である。
馬見丘陵は、葛城の地にほど近い。地形は牧に適した、なだらかな丘陵。
そして、この丘の古墳から馬型埴輪が多く出ていること──。
これらを重ねると、ひとつの仮説が浮かぶ。
馬見丘陵は、葛城氏配下の馬飼部が馬を放牧していた土地。古墳の被葬者は、その馬を掌握した首長たち。そして「馬見」という地名は、文字どおり「馬が見えた」丘の記憶である。
決定的な証拠はまだない。けれど、状況証拠がここまで揃っている仮説は、物語として信じるに足る。
5. 1600年後の丘に、立ってみる
花の季節、古墳の斜面を歩く
4月半ば、花水木がピンクに染まる頃。
古墳の斜面に立って、丘の向こうを見渡す。

遠くに大和三山と、生駒の山並み。
この景色は、1600年前の誰かが見た景色と、そう変わらないはずだ。
その誰かの足元には、馬がいた。
朝鮮半島を渡ってきたばかりの、貴重な馬たちが。
彼は、その馬を束ねる首長だった──そう想像すると、この丘が急に違う姿で立ち上がってくる。
花は毎年、新しく咲く。
けれど丘の形は、1600年前から変わらない。
そこに立つ自分も、風景の一部になる。
旅というのは、そういう瞬間のためにあるのだと思う。
旅の情報

奈良県営馬見丘陵公園
- 所在地:奈良県北葛城郡河合町・広陵町
- アクセス:近鉄田原本線「池部駅」より徒歩すぐ/車は公園駐車場あり
- 開園:年中無休・入園無料
- 見どころ:チューリップ(4月)/ネモフィラ(4月〜5月)/花水木(4月)/古墳群の散策路
- 所要時間:花の鑑賞と古墳散策で2〜3時間
- ベストシーズン:4月中旬(花の最盛期)
──古墳の斜面に、花が咲いている。
その足元に、かつて馬が並んでいた。
次にこの丘を訪れるとき、きっとあなたも、少し違う景色を見るはずだ。
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画像出典
- 馬形埴輪(ギメ美術館所蔵):撮影 Miguel Hermoso Cuesta / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
- 屋敷山古墳(奈良県葛城市):撮影 Saigen Jiro / Wikimedia Commons / CC0(パブリックドメイン)
- その他の写真:筆者撮影(2026年4月・奈良県営馬見丘陵公園)
