【第5回】安政の大獄は「弾圧」だったのか?─幕末法制度と井伊直弼の政治判断

幕末最大の政治弾圧「安政の大獄」。吉田松陰や橋本左内らが処罰されたこの事件は、井伊直弼による強権的弾圧として語られがちです。しかし本当に“弾圧”だったのでしょうか?それとも、”法に基づく取り締まり”だったのでしょうか?当時の法制度や統治構造をふまえ、「法と政治の境界」を再検証します。
Contents
安政の大獄とは何か?──歴史の中の位置づけ

攘夷熱を高めた安政の五カ国条約
1858年(安政5年)、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと相次いで条約を締結します。いわゆる「安政の五カ国条約」です。
この条約によって外国人の来日が始まり、日本各地で攘夷(外国排斥)を求める声が急速に高まりました。特に尊王攘夷の思想を強く持つ水戸藩や一橋派にとって、条約調印は許しがたい屈辱でした。
将軍継嗣問題と一橋派への処分
同時期、幕府内では将軍継嗣(けいし)問題をめぐる政争が起きていました。
一橋慶喜を推す一橋派に対し、井伊直弼は紀州藩の徳川慶福(のちの家茂)を後継に指名します。その後、直弼は一橋派の有力者たちに厳しい処分を下しました。
- 徳川斉昭(前水戸藩主)を蟄居
- 松平慶永(越前藩主)・徳川慶恕(尾張藩主)を隠居・謹慎
- 一橋慶喜、徳川慶篤(水戸藩主)には登城停止命令
この処分により、両派の対立は決定的となりました。

密勅降下という「禁じ手」
安政の大獄の直接のきっかけとなったのは、1858年末に朝廷から水戸藩に下された「密勅」です。
幕府を経ずに朝廷が直接藩に命令を下すという異例の措置は、幕府の権威を根本から揺るがす重大事件でした。
幕府は全国統治の正統性を「朝廷との交渉は幕府が担う」という体制に依存していたため、この密勅は明確な挑戦と受け取られました。

井伊直弼の真意──弾圧ではなく、秩序維持
従来、「安政の大獄は井伊直弼による強権的な弾圧」と理解されてきましたが、近年では異なる視点も注目されています。
直弼の行動は、個人的野心ではなく、譜代大名としての責務や幕府体制の秩序を守るという使命感から生まれたという見方です。
ただし、その判断が常に的確だったわけではありません。側近の長野義言(ながのよしとき)の報告に偏りがあった可能性もあり、誤解や過剰反応が招かれた面も否定できません。
幕末の法制度と処罰のしくみ:安政の大獄は違法だったのか?
法典のない社会:慣習法と儒教的秩序
江戸幕府には現代のような成文刑法がなく、慣習法や儒教道徳が実質的な法として機能していました。社会秩序を維持するため、忠孝や上下関係が重視され、法的判断にもそれらの価値観が反映されました。
公事方御定書とは?──江戸の裁判マニュアル
公事方御定書(こうじかたおさだめがき)は、江戸幕府が出した裁判マニュアルで、刑罰の基準や判断例がまとめられています。しかし、あくまで「参考資料」であり、現場では奉行所の裁量が大きく影響しました。

公事方御定書 (国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵)
「裁量」と「恣意」の境界線
法の運用において、裁量の範囲を超えて恣意的な判断が下されたかどうかが、違法性を問ううえでの焦点となります。幕末の大獄における処罰は、この「裁量」と「恣意」の境界が曖昧な状況で行われました。
大獄での処罰は違法だったのか?
処罰対象と罪状──吉田松陰・橋本左内・梅田雲浜
- 吉田松陰(1830–1859):密航未遂、将軍暗殺計画 → 斬首
- 橋本左内(1834–1859):朝廷と連携した政治活動への関与 → 斬首
- 梅田雲浜(1815–1859):通商条約反対の建白活動、反幕的な言論 → 捕縛後に獄死
彼らの行動は当時の法制度では「国事犯」「謀反予備軍」と見なされ、重罪とされました。

吉田松陰 | 出身地:山口県 |
生没年 | 文政13年8月4日 〜 安政6年10月27日 (1830年9月20日 〜 1859年11月21日) |
職業・身分 | 教育家 、 その他 |
「重罪人」への分類と名誉剥奪の論理
武士であっても、罪の重さや政治的意図により、名誉ある切腹が許されず斬首されることがありました。橋本左内への処分はその典型例で、幕府が見せしめを意図したとされます。
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橋本左内 | 出身地:福井県 |
生没年 | 天保5年3月11日 〜 安政6年10月7日 (1834年4月19日 〜 1859年11月1日) |
職業・身分 | 教育家 、 その他 |
拷問・獄死・斬首:制度の範囲内か?
過酷な手段ではありましたが、当時の慣習法・儒教的秩序・公事方御定書に基づけば「制度の枠内」と見ることも可能です。
違法・合法の線引きはどこに?
法の形式は守られていた
奉行所による吟味(取り調べ)や裁判手続きは一応踏まれており、記録も残されています。その意味では「形式的には合法」でした。
問題は「政治的意図」と「見せしめ効果」
処罰の基準が「幕政への異論」であったため、政治的意図が法の適用に大きく関与していたのは否定できません。
現代の法感覚では「過剰」だが…
現代の人権感覚や法治国家の理念から見れば「違法」「弾圧」とも言えますが、当時の基準では「秩序維持のための強硬措置」と評価されることもあります。
まとめ:違法かどうかより「なぜ行われたか」を問う
「秩序の回復」か「支配の暴走」か
井伊直弼は、反幕行動や朝廷との連携による政情不安を抑える目的で処分を断行しました。法的には実行可能だったものの、その強硬姿勢が民衆や有志の反発を招きました。
統治と正当性のはざまで揺れた決断
幕末という混乱期において、法と政治の境界が曖昧であったことこそが問題の本質です。
現代への問い:法と政治の関係とは?
法によって正当化される暴力、あるいは政治判断の名の下に行われる弾圧——こうした構図は現代にも通じるテーマです。
参考:現代の刑法VS幕末の裁量司法
観点 | 現代の刑法 | 幕末の裁量司法 |
---|---|---|
法典 | 成文法(刑法・刑事訴訟法など) | 公事方御定書+慣習法・儒教的道徳 |
法の適用基準 | 客観的・明文化された法律条文 | 主観的・忠孝などの価値観による |
裁判の手続き | 公開裁判・弁護権・証拠主義 | 吟味(拷問含む)、自白重視 |
罪刑法定主義 | 保障されている | 原則なし。裁量の幅が広い |
恣意性の排除 | 原則排除 | 政治的判断が強く影響 |
名誉ある処罰(武士) | 法の下の平等が原則 | 切腹・斬首など身分・罪状で変動 |
安政の大獄という言葉はいつ頃から使われたか?
幕末当時、「大獄」という言葉はあまり使われず、処罰は「法に基づく取り締まり」とされていました。
しかし明治維新後、吉田松陰らは「殉国の志士」として顕彰され、井伊直弼の措置は「思想弾圧」と再定義されていきます。特に自由民権運動が活発になった1880年代には、「安政の大獄」は国家による弾圧の象徴とされるようになりました。
あなたは、安政の大獄を「違法な弾圧」だと思いますか?それとも「国を守る苦渋の決断」だったと思いますか?
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