次の DEMO を見に行く
井伊直弼

【第4回】開国か攘夷か─直弼が見た国難のリアリズム

開国か攘夷か国論が二分するなか苦悩する直弼の図
kirishima

「国を誤るは小才子の所業なり」──井伊直弼


幕末日本──ペリー来航によって突如として突きつけられた「開国か、攘夷か」という選択。時の幕閣が右往左往するなかで、井伊直弼は現実と向き合い、“未来を選択”した大名でした。今回は、彼の政治判断の核心である「日米修好通商条約締結」と、その背景にある思想と現実認識を探ります。

マシューペリーの肖像画
マシュー・ペリー
マシュー・ブレイディ – Metropolitan Museum of Art, online collection (メトロポリタン美術館オブジェクトID 283184), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17461041による

🌊 黒船来航と迫る危機──アヘン戦争の衝撃

イギリス東インド会社の汽走軍船ネメシス号に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵
イギリス東インド会社の汽走軍船ネメシス号に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵

1853年、ペリー提督が黒船を率いて浦賀沖に現れたとき、日本の支配層の間では激震が走りました。

💣 アヘン戦争の記憶

・清国がイギリスに完敗し、香港を割譲した「阿片戦争」(1840-42) ・この戦争の惨状はオランダ商館を通じて日本にも伝えられ、次は日本かもしれないという危機感が広がっていました。
幕府もまた、アヘン戦争の報を受けて、軍備増強・海防強化の方針を打ち出していたものの、内実は追いつかず。地方の譜代や旗本には、対応力も資金も乏しい状況でした。

📜 通商条約の批准──「朝廷の許しなくとも」

ハリス登城の図

1858年、井伊直弼は大老に就任すると、日米修好通商条約の調印に踏み切ります。

⚖️ 賛否両論を超えて

・条約の調印には「朝廷の許可」を得るべきとの声が大勢でした、しかし直弼は、「許可を待っていたら国を失う」と判断し、独断で調印に踏み切ります

🚨 攻撃の可能性と時間との戦い

・実際、米側は数ヶ月以内に調印されなければ、武力を含めた手段を検討する姿勢を見せていました ・「開戦」か「不本意な条約」か──直弼の選択は、戦を避ける現実的妥協でした

🧭 名君か独裁者か──“強引さ”の内実

井伊直弼は「強引に開国を進めた張本人」「朝廷を軽視した人物」として非難を浴びます。

しかし──それは本当に独断だったのか?

・水戸徳川家や一橋慶喜派は、現実から目を背けた「理想論」に偏っていた ・直弼は、目の前の国難に対して“即応”できる体制を整える必要性を見抜いていた。

「拙速もまた良策なり。拙くとも、速やかに動くが肝要」『文章軌範』(謝枋得)──直弼の実務哲学

その行動には、藩政で培った“実務家”としてのリアリズムが根底にありました。

🧩 まとめ──時代を切り裂いた決断

神戸居留地 海岸通 1885年頃
神戸居留地 海岸通 1885年頃           

井伊直弼の「開国」判断は、時代の風を正確に読んだゆえの現実対応でした。
戦争を避けたという意味では「平和の守り人」 ・伝統と儀礼に囚われず、国を護る道を選んだ「孤高の決断者」です。
一方で、その過程で多くの敵を作り、彼の命を縮める結果にもなってしまいます。次回は、その決断が生んだ波紋安政の大獄に焦点を当てます。

関連記事:
【第3回】大老就任─非常時に登場した“臨時最高責任者”

【第5回】安政の大獄は「違法」だったのか?─幕末法制度と井伊直弼の政治判断

ABOUT ME
霧島@山好き
霧島@山好き
無位無官の隠居暮らし
こんにちは、ブログ「やまのこゑ、いにしえの道」へようこそ。 昔から歴史が好きで、とくに人物の生きざまや、史実の裏にある知られざる物語に惹かれてきました。 このブログでは、そんな歴史の記憶をたどりながら、実際にゆかりの地を歩いて感じたことを綴っています。 時には山の中の城跡へ、時には町に残る史跡へ。 旅はあくまで、歴史に近づくための手段です。 一緒に「歴史の声」に耳を傾けていただけたら嬉しいです。
記事URLをコピーしました