島津斉彬とは何者か?明治維新の原動力となった開明藩主の先見と遺産

現代でも「名君」として知られる薩摩藩主・島津斉彬(しまづ・なりあきら)。
なぜ今、島津斉彬を再評価すべきなのか?
もし彼が長生きしていれば、日本の近代化はもっと早かったかもしれません。
この記事では、斉彬の激動の生涯と功績をわかりやすく紹介します。

島津斉彬の肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
Contents
1. 幼少期と出自
島津斉彬は薩摩藩11代藩主・島津斉興の長男として1809年に誕生しました。斉彬は聡明で洋学にも関心を持ち、幼い頃から開明的な気質を備えていましたが、父斉興は、その開明的な気質が曾祖父の島津重豪に似ていると映り、斉彬の家督継承を拒みました。
2. お由羅騒動と家督争い
さらに斉興の側室・お由羅が自分の子・久光を藩主にしようとしたことで、藩内は二派に分裂しました。これが「お由羅騒動」です。斉彬派は粛清されました。幕府の介入を経て、1851年ようやく斉彬が藩主となりました。

島津久光の肖像
『近世名士写真』其2,近世名士写真頒布会,昭10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3514947 (参照 2025-05-17)
3. 藩主としての近代化政策──集成館事業
斉彬は藩政改革に取り組み、西洋技術を積極的に導入しました。
集成館事業では、
- 反射炉の建設と大砲製造
- 日本で最初にガス灯の常設点灯を実現
- 紡績・機械工場の設置
- 西洋式造船所を建設し、薩摩藩独自の蒸気船建造を目指す
- 人材育成機関の設立
※下図:薩摩藩内に残る旧集成館機械工場(現・尚古集成館)

これにより、薩摩藩は日本で最も近代化の進んだ藩となります。
4. 幕政への関与と人材登用
将軍継嗣問題では一橋派を支持し、徳川慶喜の擁立を通じて幕政改革を図ろうとしました。開国政策にも関わり、幕政改革を主導します。さらに、西郷隆盛を登用し、彼らの成長を支えました。のちの明治維新の原動力を育んだともいえる慧眼でした。
5. 突然の死とその後の影響
1858年、斉彬は突然死去します。一部では、斉彬が急逝した背景に毒殺の可能性があるとする説もあり、薩摩藩内でも疑念がくすぶりました(一部の研究者は毒殺説を支持しています)。死後、井伊直弼による「安政の大獄」が始まり、斉彬派は弾圧され、西郷も島流しに遭いました。藩政は一時停滞しました。
6. 島津斉彬が遺したもの
集成館事業で培われた技術と人材は、後の明治維新で大きな役割を果たすことになります。

7. まとめ|なぜ今、島津斉彬を見直すべきなのか
技術革新、人材育成、政治的先見性──。島津斉彬は、混迷の時代に希望の光をともした存在でした。
今の日本にこそ、斉彬のように先を見通し、技術と人材を育てる覚悟をもつリーダーが求められているのではないでしょうか。