第4回:開国か攘夷か─直弼が見た国難のリアリズム

「国を誤るは小才子の所業なり」──井伊直弼
幕末日本──ペリー来航によって突如として突きつけられた「開国か、攘夷か」という選択。時の幕閣が右往左往するなかで、井伊直弼は現実と向き合い、“未来を選択”した大名でした。今回は、彼の政治判断の核心である「日米修好通商条約締結」と、その背景にある思想と現実認識を探ります。
Contents
🌊 黒船来航と迫る危機──アヘン戦争の衝撃
1853年、ペリー提督が黒船を率いて浦賀沖に現れたとき、日本の支配層の間では激震が走りました。
💣 アヘン戦争の記憶
・清国がイギリスに完敗し、香港を割譲した「阿片戦争」(1840-42) ・この戦争の惨状はオランダ商館を通じて日本にも伝えられ、**「次は日本かもしれない」**という危機感が広がっていました
幕府もまた、アヘン戦争の報を受けて、軍備増強・海防強化の方針を打ち出していたものの、内実は追いつかず。地方の譜代や旗本には、対応力も資金も乏しい状況でした。
📜 通商条約の批准──「朝廷の許しなくとも」
1858年、井伊直弼は大老に就任すると、日米修好通商条約の調印に踏み切ります。
⚖️ 賛否両論を超えて
・条約の調印には「朝廷の許可」を得るべきとの声が大勢でした、しかし直弼は、「許可を待っていたら国を失う」と判断し、独断で調印に踏み切ります
🚨 攻撃の可能性と時間との戦い
・実際、米側は数ヶ月以内に調印されなければ、武力を含めた手段を検討する姿勢を見せていました ・「開戦」か「不本意な条約」か──直弼の選択は、戦を避ける現実的妥協でした
🧭 名君か独裁者か──“強引さ”の内実
井伊直弼は「強引に開国を進めた張本人」「朝廷を軽視した人物」として非難を浴びます。
しかし──それは本当に独断だったのか?
・水戸徳川家や一橋慶喜派は、現実から目を背けた「理想論」に偏っていた ・直弼は、目の前の国難に対して“即応”できる体制を整える必要性を見抜いていた
「拙速もまた良策なり。拙くとも、速やかに動くが肝要」──直弼の実務哲学
その行動には、藩政で培った“実務家”としてのリアリズムが根底にありました。
🧩 まとめ──時代を切り裂いた決断
井伊直弼の「開国」判断は、時代の風を正確に読んだゆえの現実対応でした。
・戦争を避けたという意味では「平和の守り人」 ・伝統と儀礼に囚われず、国を護る道を選んだ「孤高の決断者」
一方で、その過程で多くの敵を作り、彼の命を縮める結果にもなってしまいます。次回は、その決断が生んだ波紋──**「安政の大獄」**に焦点を当てます。