将軍継嗣問題とは何だったのか──大奥・一橋派・井伊直弼が動かした幕末政局の転換点

幕末最大の政争のひとつ「将軍継嗣問題」。
病弱な13代将軍・徳川家定の後継をめぐり、幕府内外で激しい争いが繰り広げられました。
聡明な一橋慶喜を推す雄藩と、大奥や保守派の支持を受けた徳川慶福(のちの家茂)。
この争いの決着をつけたのは、大老に就任した井伊直弼でした。
Contents
将軍継嗣問題とは?
徳川家定の病弱と後継問題の発生
13代将軍・徳川家定は幼少期から病弱で、後継者もいないまま将軍職にありました。そのため、次期将軍を誰にするかが幕府にとって最大の懸案事項となります。

徳川家定像(徳川記念財団蔵)
一橋派 vs 南紀派の構図
この問題はやがて幕府内部の派閥抗争へと発展しました。
- 一橋派:一橋慶喜を支持。雄藩(薩摩・越前・水戸)+朝廷が支援。
- 南紀派:徳川慶福(紀州藩主)を支持。大奥・譜代大名・保守派が後押し。


徳川家茂像(川村清雄作)
一橋慶喜はなぜ有力候補だったのか?
聡明な資質と将来性
一橋慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の七男。西洋の知識にも通じ、将軍後継にふさわしいと目されていました。
雄藩の思惑と改革期待
薩摩藩主・島津斉彬や越前藩主・松平慶永(春嶽)らは、幕政改革を見据えて慶喜を推しました。従順な将軍ではなく、自立したリーダーが必要だったのです。

島津斉彬の肖像
出典:幕末、明治、大正回顧八十年史 第1輯
東洋文化協会 編 東洋文化協会 昭和8

松平慶永の肖像
出典:大名列伝 第8 (幕末篇)
児玉幸多, 木村礎 編 人物往来社 1967
大奥が一橋慶喜を嫌った理由
斉昭と大奥の因縁
慶喜の父・斉昭は、大奥に対して批判的で政治介入も辞さない人物でした。そのため「その子=危険」という印象が根強く残っていたのです。
慶喜自身の態度と将軍家定との関係
慶喜は大奥への非協調的な態度を取り、また家定とは性格的に合わず信頼関係が築けませんでした。
井伊直弼、大老に就任──そして慶福に決定
井伊直弼の大老就任(1858年)
幕政の混乱収拾のため、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任。これは非常時にのみ任命される幕府の最高職で、絶大な権限を有します。

井伊直弼
京狩野家第9代 狩野永岳 (Kanō Eigaku (1790~1867)) – 彦根城博物館所蔵品
慶福(家茂)を将軍に即決
井伊は就任直後、家定の意を受けて徳川慶福(後の家茂)を次期将軍に指名。一橋派や朝廷には一切相談せず、決定を強行しました。
将軍継嗣問題と安政の大獄
継嗣問題に反対した大名や志士、公家たちは弾圧の対象となり、これが安政の大獄(1858〜59)につながります。
橋本左内、吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎など、数多くの志士が処刑・投獄されました。

吉田松陰
「絹本着色吉田松陰像(自賛)」の肖像部分
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橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵
仮に慶喜が将軍になっていれば?
歴史に「もし」はありませんが、慶喜が14代将軍になっていれば、幕末の政局はまったく異なる展開を見せたかもしれません。
実際に慶喜は後に15代将軍となり、大政奉還を行うことになります。
井伊直弼の決断は「正しかった」のか?
井伊直弼の独断的な判断は、結果的に幕府と雄藩・朝廷との信頼を大きく損ね、桜田門外の変(1860年)という暗殺事件を引き起こします。
将軍継嗣問題は、単なる「後継者争い」ではなく、幕末の大転換期を決定づけた政争でした。
関係図と年表でおさらい
井伊直弼と将軍候補の簡易系図
徳川家斉 ├─ 徳川家定(13代将軍)※子なし │ ├─ 徳川慶福(紀州藩主→14代家茂)←南紀派支持 │ └─ 徳川斉昭(水戸藩主) └─ 一橋慶喜 ← 一橋派支持
安政年間の簡略年表
年 | 出来事 |
---|---|
1854年 | 日米和親条約締結 |
1857年 | 家定の病状悪化、継嗣問題が顕在化 |
1858年4月 | 井伊直弼、大老に就任 |
1858年6月 | 徳川慶福(家茂)を将軍に決定 |
1858年7月 | 無勅許で日米修好通商条約を調印 |
1858年9月〜 | 安政の大獄開始 |
まとめ:政争の中に見る人間模様
将軍継嗣問題は、個人の資質や家格だけでなく、思想、派閥、大奥の感情なども複雑に絡み合う政争でした。
この事件を通して、意思決定のあり方や分断の危うさを、現代の私たちも学ぶことができるのではないでしょうか。